主任司祭からのメッセージ

佐藤神父様からの手紙


  カトリック大和教会の皆様、お元気にお過ごしですか? 

2021.2.2.

主任司祭 佐藤 直樹


再度の「緊急事態宣言」が出されて早や1ヶ月が経過し、その期限がさらに1ヶ月余り延長されました。

ただし、カトリック大和教会としては、宣言に先立った年末年始より“全ての小教区活動を停止する”と言う、年末のテ・デウムや教会への初詣を含め、キリスト者の信仰生活に欠かすことのできないミサへの参加等の犠牲を再度、信徒の皆様にも強いて担わせる形に踏み切らせて戴きました。これまでの皆様の献身に心から感謝いたします。

それは何よりも、先ずはキリスト者が自ら率先して人の流れを自粛する十字架を担う事により、医療従事者への負担軽減を配慮することや、小教区として自らが、自分たちにとって最も大切にしているものを犠牲にしてでも、「感染防止対策」と言う社会貢献に寄与しようとする取り組みそのものが、今、この現代社会の中で、小さい者や弱者への配慮を最優先にしたイエスの在り方に連なる、「神の国」を実現するための、キリストの愛の実践そのものだと信じるからです。今後もキリストの名のゆえに忍耐を賜りますよう、宣言解除までの期間の辛抱のご協力をお願いいたします。

 感染者数が減少傾向になってきている所は大変、嬉しい限りではありますが、重症者数の高止まりや病床の逼迫・医療崩壊の懸念、そして感染者数の高齢者が占める割合の増加は予断を許しません。最近、教会にかかってくる電話でも、私たちの教会に所属する信徒ではない日本人からの「食糧支援」の問い合わせや、それこそ「恥を忍んでお願いします。僅かで良いので現金を恵んで戴けないでしょうか?」と言う生活そのものの困窮状態が身近にひしひしと感じられるような話が出てきています。さすがに生活支援としての現金の寄付はお断りしていますが、それ以外でも「仕事の斡旋」の問い合わせすら電話口で求められたりする事に、失業に伴う困窮状態の深刻化の現実味を感じさせられます。

カトリック大和教会でも、今までは毎週日曜日にミサへの参加を通して、直に顔合わせが出来たことで、信徒の方々の安否や健康状態、生活状況などの確認がコロナ禍に於いても、ある程度は可能でした。しかし今の現況、信徒の皆様の流れを止めてしまった中で、その安否や状況の把握が非常に困難となっています。連絡が届く方への様々な確認は何とかなるのですが、連絡がなかなか難しい方々を含めて、高齢の信徒の方、独居状況にある方、何かの支援を求めようにも声を出せないでいる信徒の方などが、皆様の身近におられるようでしたら是非、気を留めて戴けたらと思います。典礼聖歌400番でしたか「小さな人々の一人一人を見守ろう。一人一人の中にキリストはいる」のです。そのような方をご存じの方がいましたら、お一人で悩まないように、勇気をもって声などを出してもらえたらと思います。

 コロナ禍が続きます。その中で神様は何に気付くよう、私たちに求められるのでしょうか。何を具体的に実践する事でイエスの御心を果たすように願われるのでしょうか?コロナ禍の状況だからこそ、互いに愛し合うこと、お互いのために祈り合いながら、それを問い続けつつ、信仰に於いてやるべき務めを実行していきましょう。祈りの中でキリストと深く結ばれていけますように。


※神父様からの手紙のダウンロードはこちらから




新しい主任司祭として、佐藤直樹神父様が着任されました。

今年から大和教会主任司祭になりました。お手柔らかに、よろしくお願いいたします。今までは東京の調布にあるサレジオ神学院にて4年間、神学生の養成担当をさせていただきました。その傍ら、幼稚園生から小学生に宗教の授業や中高生の修養会や錬成会指導、また東京教区青少年委員会にて大学生や社会人の若者たちとの活動をやらせて戴き、毎日、若者たちとの出会いに恵まれた生活を過ごしていました。

 大の鉄道ファン!乗り鉄魂とNゲージ魂も健在!一昨年に念願の飯山線を豪雪期に完全乗車して感動!昨年は山形新幹線で板谷峠を越えても感動!仙山線で山越えし東北仙石ラインにも乗り感動!銚子電鉄にも乗って感動!しました。死ぬまでに全国の鉄道の完全乗車を目指しています。そして熱狂的な阪神タイガース愛は小学校5年生以来、相も変らぬです!神様愛とイエス魂に燃えてくるのは、果たしていつの日になるやら……???






まさに今、“Protect All Life”を実現する時       

2020.5.5

大和教会主任・サレジオ会司祭 佐藤 直樹

  

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これが人の子があなたがたに与える食べ物である」(ヨハネ627

パンの増加の奇跡を行った後、湖上を歩いて弟子たちの所まで行くと言う、神様パワー全開の離れ業を成し遂げたイエス様を群衆はこぞって追いかけ、湖の反対側にまでついていきます。群衆の目的はしるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したから(ヨハネ626でした。「イエス様にくっついて行けば食いはぐれること無く、ただ飯を食える!」と安易に思っているかのような場渡り的な人たちでした。それだけにイエス様は、ご自分がキリストだと証しされていくのはいつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働事に他ならないと言われます。つまり、永遠の命に至る食べ物そのものがイエス様ご自身であると同時に、イエス様がしたように、私たちも父である神様が喜んでくれるような働き方をする事こそが永遠の命に至る働き方なのだと言うことでしょう。

 新型コロナウィルス感染拡大の影響が未だ長引いていますが、3月から昨今に至るまでの報道の在り方の変化に皆さんお気づきでしょうか?それは、かつて「自分が感染しないように」と言う主張が多かったのですが、感染拡大防止が続く現在は「他の人を感染させない」「他者にうつさない」という視点へと意識が方向転換しています!!つまりこれは“他者を思いやるように”求めているものです!!それだけに、他者の命を守ることが自分の命を守ることにも繋がっていると言うことです。隣人を自分のように愛しなさい(マルコ1231と言われている中で、自分のように愛するとは、まさに「自分が…」ではなく、「隣人・他者の…」命の方を先ず心にかけ、それを守り愛する行動が、自分の命をも心にかけて守り愛する事そのものであり、延いてはそのような取り組みの実践が心を尽くし、知恵を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する(マルコ1230事にも通じるのではないでしょうか?だから、“Stay Home(=家に居よう)”も、テレワーク・自宅学習も、不要不急の外出も、“GW(=我慢ウィーク)”も、全ては隣人や他者を思い図るがゆえの取り組みだけに、決して刹那主義的なものではない……つまり、「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のため」の働きであり、これで、ご自分がキリストだと証しされていく事にもなると……それは、まさに私たち自身が「地の塩・世の光」となる瞬間なのです。

 教皇フランシスコ来日から早や5カ月が過ぎました。教皇来日に際し、私たち日本に与えられ、取り組みを求められたのがProtect All Life(=全ての命を守る!)」でしたね。まさに今、命を守る事…しかも「全ての命を守る」と言う、教皇からの呼びかけに対する取り組みの実践の時はなのです。“Protect All Life実現”のために自分自身を差し出し、自分をその為に使って、全ての命を守る目的を実現する事、これが人の子があなたがたに与える食べ物である(ヨハネ627と言われる、ご自身を十字架にまで明け渡したイエスに倣う信仰の実践だと思われませんか?

 



悪を持って悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。

かえって祝福を祈りなさい。(1ペトロ39

 2020年3月26日

                        カトリック大和教会

                                                          主任司祭 鈴木正夫


新型コロナウイルスが蔓延し、世界中に広まり「パンデミック」とWHOから宣言されています。要するに収集のつかないほどの様相を呈していると言うことでしょうか。屋形船から大型クルーズ船に至るまで密閉された状態で感染が起こっていること、医療関係者とその院内感染、いわゆるクラスター爆弾のように一人の人間が沢山の人びとに伝染させてしまっていると言うことが実態のようです。感染の原因を辿り丁寧に囲い込むことが出来れば良いのですが、「市中感染」と言って感染源までたどり着けない例があり、たまたま乗り合わせた電車タクシーなど、触った手すりや店のドアのノブなど、本人も全くわからないものがあり、町全体、国全体の動きを停止させるところまで来ています。

 このような話があるのを思い出しました。ある村におしゃべり女が居た。ただのおしゃべりではなく、事実を確かめもせず、人の悪い言うわさ、主任神父の悪いうわさを方々に言いふらすおしゃべり女でした。四旬節の告解の償いとして、神父はその女に鶏一匹分の毛を取り裏山の頂からまき散らし、神父のところに報告に来るよう命じた。風の吹く日でした。撒き終わって神父に報告にやってきた。「今撒いた毛を全部集めてくるように」と神父は言った。“こんな風の日に、まき散らした毛など集められません”と女はこたえた。「あなたのおしゃべりでまき散らした人の悪口はこのように取り返しがつかないのです”と神父は諭したと言う話しです。自分のことを顧みず、不平不満をまき散らし社会全体、教会全体を暗くするウイルスをクラスター感染させているのです。

 司祭になる時、先輩神父さんから一枚の御絵をいただきました。その裏にこのような文字があました。「人のことをよく考え、人のことを良く言い、人に良く行いなさい」。いまこの言葉がわたしにとってどれほど大切な言葉であるか痛感しています。人のことを素直に評価するより、その人の欠点やくせに目を向け、その人のことを良く言うより批判がましい言葉で酷評する。そういえば本人の知らないところで、褒めたり、そのひとのことを良く言う人をあまり見ない。

 人の悪口を言わない人は本当に素晴らしいひとです。聖書の中には「祝福」と言う言葉が良く出てきます。Benedicare(祝福)ですが、Bene-dicareの合成語です。Beneは「良い」Dicare は「言う」という意味です。人のことを「良く言う」と言うことでしょうか。「悪をもって悪を 侮辱をもって侮辱に報いることでなく、かえって「祝福」つまり「人のことを、良く言うこと」をしなさと言っています。

 「悪口」 「ヘイトスピーチ」 「憎しみに満ちた言葉」で蔓延しているこの世界にありながら「祝福」を伝染して回れるとしたらどんなに素晴らしいことでしょうか。

 

 そろそろ、わたしも大和とお別れです。これまでのわたしの数々の暴言をおゆるしください。祝福の言葉をもたらす、少しはましな神父になれるよう祈ってください。今はやりの新型コロナウイルスのように伝染力のある「祝福のクラスター」になりますように。





恐れるな。語り続けよ。黙っているな。

わたしがあなたと共にいる。(使徒言行録189-10


2019年12月25日

                        カトリック大和教会

                                                            主任司祭 鈴木正夫

 

1125日の教皇ミサに参加することができました。それぞれの国籍を持った大和教会の仲間とのバスツアーでした。テーマソング「Protect all Life」を聞きながら,歌いながら私たちがローマカトリック教会のメンバーであることをあらためて実感できる素晴らしい巡礼体験でした。

 フランシスコ教皇様の訪日は日本社会に大きなインパクトを与えたことを実感します。天皇陛下訪問、総理大臣との面談等もあり、またマスコミによる好意的報道は人口の0.4%のわずかなカトリック者の存在を数倍に広めてくれたような気がします。

 広島では「その沈黙の淵から、亡き人びとのすさまじい叫び声が今なお聞こえてきます」と述べ、核に関する一連の発言は被爆された多くの方々の代弁であり、同時に世界の軍事拡張の動きにとっても明確な警鐘でもありました。単なる政治家のレベルではない神の意志の代弁者・預言者としての力あるお言葉でした。「確信を持ってあらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは,現代において犯罪以外のなにものでもありません」と述べ「核兵器を保持することも倫理に反します・・・これについて私たちは神の裁きを受けることになります」と世界に向かって明確に述べられました。

 風見鶏のように時代の風に優柔不断に迎合することなく,「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。」(使徒言行録189)とパウロは幻の中で主の言葉を受けました。実はこの言葉を受ける前に彼はギリシアのアレオバゴスの真ん中に立ち福音を説いたのですが、人びとにあざ笑われ,「それについては,いずれまた聞かせてもらおう」(使徒言行録17)と軽くあしらわれたばかりでした。アテネは当時、世界の文化の中心地、哲学をはじめ賢者と呼ばれる人びとが寄り集い知的な論議に花を咲かせている場所でした。福音の教えは必ずしも知的で説得力のある演説ではなく,生と死と復活に基づくイエスの出来事のお話はギリシアの哲人たちには良くわからなかった話だったのでしょう。

 ブラックフライデーとかサイバーマンデーとかの言葉が年末のこの頃飛び交っています。要するに年末商戦のことでしょう。人びとの消費を促す大安売りに踊らされる時でもあります。123日のBSニュースでフランシスコ教皇の発言が報道されていました。「物のために暮らしても決して満足することはない。欲望が膨らみ,それを得られなかった人は常に満たされず怒りを感じる。消費主義は信仰をむしばむウイルスだ。・・・消費主義は,持っている物で人生が決まってしまうと信じるようになってしまう」と。人びとの消費こそ経済活動の源泉であり,これを妨げることは経済の活性化を妨げるものでもあります。

御自分の命がいつまで持つかわからないと言う内容の発言を時々なさるそうですが,そのような健康・寿命の限界を感じながら教皇様は世界に向かって大切な福音の価値を発信し続けておられます。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。」と言う主の御言葉を文字通り実践されています。Protect all life 命とは何か どんな命を守ろうとするのか。

 



 

取って食べるなと命じた木から食べたのか(創世記211

                  2019930

                        カトリック大和教会

                                                            主任司祭 鈴木正夫


 台風15号の首都圏直撃がこんなに強烈なものかと思い知らされました。数日前に遠い南洋の海で発生した低気圧だったのに、突如として出現し送電線の鉄塔をなぎ倒し、ゴルフ場のネットを支える鉄骨を倒し、多くの民家の屋根をはぎ取り太陽が見える青空天井になってしまいました。今だに電気が届かない状態が続いています。電気がないことはどれほど社会全体を窮地におとしいれる事になるのか、身にしみて味わっているところです。回復作業に当たる東電の職員も限られており、「おそい!おそい!」と文句を言われながら対応に追われて、連日の作業にかかわられておられることを思えば頭の下がるおもいです。

 確かに目に見えて地球規模での大きな気候変動を感じます。「線状降雨帯」とか「自分のいのちを守る行動をせよ」とか耳慣れない新しい防災上の言葉が聞かれるようにもなりました。

豪雨や台風、気温の上昇の話題は基本的には自然災害で、昔はどうにもならないものとあきらめていましたが、これが地球規模で語られるようになり、CO2の増加をもたらした人間の責任、つまり人災と思われるようにもなりました。自然環境は人類に任された神様からの贈り物です。人間は十分に配慮しなかった事になります。ブラジルのアマゾンの熱帯雨林は「地球の肺」と呼ばれています。プラジルのトランプと言われる大統領は、火災になった森林地帯の火消しを軍隊に命じ、自分も森林を大切にする人間であるかのように振る舞っています。彼の説明では、「すでに伐採してしまった不要な樹木を方々で人びとが焼却処分していて火事になった」と。伐採を容認し、目先の産業開発を進めている彼のお粗末な言い分にしか聞こえてきません。

「盲人が盲人の道案内をすることが出来ようか、二人とも穴に落ち込みはしないか」(ルカ639)の言葉を思い起こします。昨今の各国のリーダーには極端というか突出した人物が選ばれています。自分たちの今を救い、はっきりものを言い、わかりやすい政策を持ち、行動力のあるリーダーが求められているのでしょう。確かに何もしないリーダーよりも良いのでしょうが、後先の事、他国との持続可能な友好的で、そして地球規模でものを考えるリーダーとは言いがたいような方が多くなったように思えるのです。そのような特殊な価値観の持ち主に世界が汚染されるのはごめんです。これこそ人災です。良きリーダーを選ぶことに十分注意したいものです。

 人が神の言いつけに背き、罪を犯したときの話しが、聖書の初めの方に書かれています。人間は何をしても良いが、神のために残しておかなければならない木の実がある。それだけは残しておくように言われている。しかし人間はそれを無視し、神の領域を侵してしまう話しです。「おまえが裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」(創世と記211)自分が裸であることに気づき、神の前から隠れる人間の姿が物語られています。神が「良し」と言われ創造された世界をマイクロプラスチックの海、大気汚染とCO2いっぱいの空にしてしまった今、確かに「裸であること」を告げられている。



両方とも、育つままにしておきなさい(マタイ13,30

 

                        2019625

                        カトリック大和教会

                                                       主任司祭 鈴木正夫

 

教会は主の復活の出来事を長い復活節を通して祝ってきました。聖霊降臨の出来事で締め括ることになります。聖霊が降りイエスのなされたことをことごとく思い出し、イエスを理解する恵みが与えられます。

初めに毒麦のたとえ話を思い出しましょう。良い麦の種を蒔きました。人びとが眠っているうちに、敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て実ってみると、毒麦も現れた。「旦那様どこから毒麦が現れたのでしょう」と農夫は聞きます。「敵の仕業だ」と主人は答えます。「では、行って抜き集めておきましょうか」と言います。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と主人は答えます。(マタイ132430

 「今すぐ、どうしても毒麦を抜き去る」事をさせず、刈り入れの時(最後のとき)まで待たせる主人の姿があります。最後まで毒麦と一緒に育つのが良い麦の姿なのでしょう。

 「わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来た」(ヨハネ1247)と言われる通り、イエスの生涯は、一貫して悪人と戦い、彼らを征伐することに主眼を置いていないことがわかります。むしろやられっぱなしのイエスの姿が見られます。ユダの裏切りがあり、大祭司たちに捕まりさばきを受け、ローマ総督ピラトの前での裁判では明らかにユダヤ人たちの煽動があり、人殺しのバラバよりイエスの方が「十字架につけろ」と叫ばれます。恐ろしいほどはっきりとした悪意がそこにあります。自分の選んだ弟子に裏切られ、ユダだけでなく、弟子の筆頭ペトロからも「イエスを知らない人」と裏切られます。私たち普通の人間でしたら、憎しみが生じます。怒りが生じます。そして仕返しを考えます。それをしないと正義が行われないからです。正義のためにも世の中の悪を断ち切らなければならない大義が生まれ、人びとはそれを当然としています。仇討ちは忠臣蔵のテーマですし、多くの日本人の倫理観でもあります。

しかしイエスはそこに焦点を向けていません。人の悪が問題ではなく、人が神の恵みにより、人を愛し、たとえその人が悪人であったとしても、その人を許せる人間になることが問題なのです。「互いに愛し合う人間になること」が彼の教えなのです。それこそ、常人では思いつかない教えなので「新しい掟」と仰っておられるのでしょう。

 わたしたちは、人を裁きます。人を裁くために、あれこれとその人のした悪事を数え上げます。人を裁く理由はたくさんあるのです。だから、人を裁くのです。

「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ133435

 イエスの弟子であることは、「毒だ 毒だ」と騒ぎ立てないことです。毒麦の中で毒麦と共に笑いながら共に育つことでもあるのです

 

 


ニネベの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めた。

                                                        (ルカ1132

                

2019314

                    カトリック大和教会        

                     主任司祭  鈴木正夫

 

四旬節のテーマは「悔い改め」でしょう。その昔、ヨナ預言者がニネベの町の人々に「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」(ヨナ34)と呼びかけました。するとニネベの人々は神を信じ、王様にいたるまで粗布をまとって断食をし、悔い改めたと言うお話です。

どうして? なぜ? だれが? 私のことですか? と言う疑問の声もなく、町全体が悔い改めたとあります。

今国会の与党・野党のやりとりをテレビで放映していますが、決して子供たちには見せたくない激しいののしり合いの国会です。確かに基準となるべき景気動向の政府データですから、絶対にいい加減にやってもらいたくはないし、ましてや景気を良く見せようとする嘘のデータを故意につくりあげているようにもかんじます。追求する方もまるで自分が清廉潔白な人間かのように相手を激しく非難し、非難される側はいつもピントを外し話題の本筋に向かわず、はぐらかしの論戦です。国外では某大統領の疑惑問題でも、避難する側に向かってフェイク・フェイクとののしり、つまり、「嘘を言っているのはおまえたちの方だ」といっている訳です。また「魔女狩り」だとかいって怯む事がありません。

政治の世界はもともとそのような性質のもので、誠実さは期待できないものかもしれませんが、結局反省することのない世の中となり、無責任としらけのムードが蔓延するばかりです。

四旬節第二金曜日は「性虐待被害者のための祈りと償いの日」と定められました。最も信頼されるべき司祭や修道者が子供等に性的虐待をし、それを隠蔽する教会の姿勢がもんだいとされています。フランシスコ教皇が思い切ってある枢機卿の職位を剥奪し、職務の執行を停止させた事も話題になっています。カトリック教会の恥部をさらすことであり、聖であるべき教会の奉仕者が信頼に値しない忌まわしいものであると言う現実をさらけ出したのです。信徒の中にも動揺が起こっています。教会の何もかもさらけ出しすべて嘘と見せかけだらけ、本当に聖なるものなんてないのだと言っているように思われます。恥ずかしいことですが、本当の「悔い改め」が始まっているのです。

 今年の秋か冬頃教皇フランシスコがはじめて日本に来られるというニュースがありました。ヨハネ・パウロ二世教皇が日本に来られてかなり年月が経っています。そのヨハネ・パウロ二世教皇訪問のとき長崎の被爆者の所を見舞い、教皇様は一人一人の被爆者に向かって「ごめんなさいね」と謝っておられたと言う話しがあります。浜尾司教様が案内なさっておられたようです。「教皇様、あなたが原子爆弾を落としたのですか?」といさめたところ、「私の兄弟がしたことです」と応えられたと言う話しを思い出します。

確かに恐ろしいばかりの不正・悪がこの世にあります。ニネベの人々のようにヨナの説教を聞いて素直に「悔い改める」事が大切です。人ごとでなく神の前に罪深いこの私が、神を信じて新しい生き方に変わることです。

 

 


 

マリアとヨゼフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子をさがしあてた。(ルカ216    

                                   2018年12月13日

                            カトリック大和教会

                                                                          主任司祭 鈴木正夫

 

  キリスト教の信仰とはイエスがキリストであることを信じる信仰です。キリストはXristosと言うギリシャ語表現でヘブライ語ではメシアと表現されています。意味は「油を注がれている方」であり、当時では待ちわびている救世主と理解されています。イエスの誕生物語は、マタイ福音とルカ福音にあります。おそらくこの福音が書かれたのはイエスの死後50年以内頃に初期イエスの信奉者によって書かれたものと思われます。イエスの十字架の死があり、復活を体験し、イエスの派遣のお言葉もあり、このイエスの出来事をなんとかして人々に知らせなければならないと思い宣教が始まります。宣教する中でたくさんの人々から反対され、迫害されながらもイエスの復活の力を直接感じ、命をかけても惜しくはないという強い信仰の集団があったことがうかがえます。復活はイエスが天の父から送られた「神のひとり子」という信仰になりますから、「神様が人間となり、この世にお生まれになった」と言うことでもあります。

 イエスの誕生は、神の子の誕生ですので、復活の出来事のお話だけでなく、改めてイエスの誕生の物語が付け加えられることになったと思われます。マリアとヨゼフの旅のこと、3人の博士のこと、羊飼いの話しも歴史的な事実より、「神の子の誕生」の意味を表す物語として構成されたものと理解できます。イエスをキリストと認めることは当時だけでなく、今でも信じる人は多くはないのです。ユダヤ教の人々から否定され、迫害されたのはある意味、当然でしょう。唯一の神・全能の神が人間となること、あるいは神に子が居ること事態あり得ないからです。ギリシャのアテネでパウロがこの出来事を話したら、せせら笑われたことが使徒言行録17章にあります。あまり知的ではないからです。そういう意味では、宣教は知的証明ではなく、信仰告白なのです。

アメリカでの体験ですが、バークレイ大学のキャンパスでしたが、そこに乗り込んできて学生たちに説教し始めたどこかの勇ましい宣教師が居ました。ヒッピーまがいの学生と口論になり、その学生の質問に答えられず、からかわれていたのを思い出します。

 さて、クリスマス物語ですが、「神の子」の誕生を身近な人が気づかないと言うおはなしになっています。身ごもった「神の母マリア」をヨゼフがロバに乗せ、宿屋を探しても見つからず、馬小屋で密かに生まれるイエスのはなし。町外れにいる羊飼いも天使の知らせで、イエスを探しに行きます。「あなた方は布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである」。当時布にくるまって、飼い葉桶に寝ている赤ちゃんは普通であり、皆貧しかったのです。探し当てるのはとても困難なのです。では何が「しるし」でしょうか?神様がいるところ、それは特別なところを探してはいけませんよ。と言うことでもあります。マタイ福音書では3人の博士の話しがあります。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と言ってヘロデ王を訪ねます。

王家に生まれることが常識だったのでしょう。占星術の学者たちは「星」をたよりに「幼子が母マリアと共におられた」のを探し当てたとあります。「星」に気づくことが大切です。

 


 

天は神の栄光を語り、大空は御手のわざを告げる(詩191     

                        20181010

                        カトリック大和教会

                      主任司祭鈴木正夫

 

  101日本庶佑(76)さんがノーベル医学生理学賞を受賞しました。免疫は体に害となるものを排除する仕組みになっている。害となるものとならないものとを見極める特別な細胞「PD-1」を発見し、これをくぐり抜けてしまうガン細胞を排除させるよう「オプジーボ」薬剤をつくり、すでに画期的なガン治療に貢献している。「PD-1」以外に「CTLA-4」という細胞も同じような役割を果たしていることを発見したジェームズ・アリゾン氏も一緒に受賞している。

そもそも、平均的大きさの人間の細胞の数はおよそ302000億個あるそうです。気の遠くなるような数の細胞ですが、すべて統一され本人に意識されなくともきちんとつながりあっていると言うことです。すべての細胞はちゃんとプログラミングされ新陳代謝され有機的につながっている一つの生命体になっています。自己複製と物質交代の機能があり中心にゲノム、人間の場合「ヒトゲノム」といわれ(30億個)、遺伝子が染色体という細胞の核の中のひも状に見える構造物に数珠つながりになっている。人は2セットのゲノムが22対の常染色体と1対の性染色体に分かれて収められ、44本と+2本の46本が1本の長いひもで成り立っていて1個の細胞にあるDNA1メートルを超える長さとなるそうだ。

一つの細胞にあるDNAの長さが1メートル以上なら、一人の人間のDNAを繫げると3020000億メートルあると言うことになります。これも気の遠くなるような不思議な生命の現実である。

さて、生命体ではない、宇宙の話題にも目をむけて見よう。ハヤブサ2の話題で今日本はいっぱいです。ハヤブサ2201412月に打ち上げられ、3年6ヶ月かけ、やっと目的の星リュウグウに到着したというニュースで、宇宙に関して何の知識もない私にもなんだか大変興味深い事として伝わってきます。リュウグウはおよそ3億キロ地球から離れた距離にある直径900メートル大の星だそうです。広大な宇宙の中に漂う小さな星をめがけ、そこに到着するのは日本からブラジルにある長さ6センチの的に命中させるようなものだと説明されています。科学の力で人間は着々と自然の実態の解き明かしをしています。

そもそも物質とは何か。物質を構成している最小単位を研究する素粒子の研究も進んでいる。ヒッグス粒子の話題も最近ありました。それでも宇宙の4%の物質がわかっているのみで残りの物質の23%はダークマター、73%はダークエネルギーであるといわれています。要するにまだわからないことばかりなのです。

生命の仕組み、物質の仕組み、そして宇宙の仕組みに目を向けるにつけ、まだわからないことが大いにしても解明できる何らかの秩序がその中にあるように思えます。

「天は神の栄光を語り、大空は御手のわざを告げる」聖書の時代の人々は科学を知りませんでした。しかし宇宙とそこにあるものは偶然にあるものではなく慈しみ深い神様の栄光(素晴らしさ)を告げているのだといっています。秩序ある存在を、偶然と片付けるより秩序を与えるものの存在「神」を認める方がはるかに納得のいく理解だと思う。

 


 

天は神の栄光を語り、大空は御手のわざを告げる(詩191     

                        20181010

                        カトリック大和教会

                      主任司祭鈴木正夫

 

  101日本庶佑(76)さんがノーベル医学生理学賞を受賞しました。免疫は体に害となるものを排除する仕組みになっている。害となるものとならないものとを見極める特別な細胞「PD-1」を発見し、これをくぐり抜けてしまうガン細胞を排除させるよう「オプジーボ」薬剤をつくり、すでに画期的なガン治療に貢献している。「PD-1」以外に「CTLA-4」という細胞も同じような役割を果たしていることを発見したジェームズ・アリゾン氏も一緒に受賞している。

そもそも、平均的大きさの人間の細胞の数はおよそ302000億個あるそうです。気の遠くなるような数の細胞ですが、すべて統一され本人に意識されなくともきちんとつながりあっていると言うことです。すべての細胞はちゃんとプログラミングされ新陳代謝され有機的につながっている一つの生命体になっています。自己複製と物質交代の機能があり中心にゲノム、人間の場合「ヒトゲノム」といわれ(30億個)、遺伝子が染色体という細胞の核の中のひも状に見える構造物に数珠つながりになっている。人は2セットのゲノムが22対の常染色体と1対の性染色体に分かれて収められ、44本と+2本の46本が1本の長いひもで成り立っていて1個の細胞にあるDNA1メートルを超える長さとなるそうだ。

一つの細胞にあるDNAの長さが1メートル以上なら、一人の人間のDNAを繫げると3020000億メートルあると言うことになります。これも気の遠くなるような不思議な生命の現実である。

さて、生命体ではない、宇宙の話題にも目をむけて見よう。ハヤブサ2の話題で今日本はいっぱいです。ハヤブサ2201412月に打ち上げられ、3年6ヶ月かけ、やっと目的の星リュウグウに到着したというニュースで、宇宙に関して何の知識もない私にもなんだか大変興味深い事として伝わってきます。リュウグウはおよそ3億キロ地球から離れた距離にある直径900メートル大の星だそうです。広大な宇宙の中に漂う小さな星をめがけ、そこに到着するのは日本からブラジルにある長さ6センチの的に命中させるようなものだと説明されています。科学の力で人間は着々と自然の実態の解き明かしをしています。

そもそも物質とは何か。物質を構成している最小単位を研究する素粒子の研究も進んでいる。ヒッグス粒子の話題も最近ありました。それでも宇宙の4%の物質がわかっているのみで残りの物質の23%はダークマター、73%はダークエネルギーであるといわれています。要するにまだわからないことばかりなのです。

生命の仕組み、物質の仕組み、そして宇宙の仕組みに目を向けるにつけ、まだわからないことが大いにしても解明できる何らかの秩序がその中にあるように思えます。

「天は神の栄光を語り、大空は御手のわざを告げる」聖書の時代の人々は科学を知りませんでした。しかし宇宙とそこにあるものは偶然にあるものではなく慈しみ深い神様の栄光(素晴らしさ)を告げているのだといっています。秩序ある存在を、偶然と片付けるより秩序を与えるものの存在「神」を認める方がはるかに納得のいく理解だと思う。

 


 

あなた方は「然り」は「然り」とし,「否」は「否」としなさい。

                                                                           (ヤコブ512

                         

2018615

                        カトリック大和教会

                        主任司祭鈴木正夫 

今もっぱらの話題は,トランプ氏と金正恩氏との対談がどのようになるのかと言うことでしょう。どちらも何か突出した人柄のように思え,穏やかに対談できるものだろうかと言う懸念があります。国を代表する立場ですから,準備段階で,水面下で色々な交渉があったことでしょう。言葉の駆け引きの応酬だけでなく、より人道的面で実利のある話し合いになることを心から願っています。

片や日本に目を向けてみると,東アジアがこんな大事な事態に至っているのに,総理官邸では,森友・加計問題で防戦一方の立場の弱い姿しか見えて来ません。こんなことをやっていて良いのか。沢山の公文書の改竄や、文書処分など責任ある政府役人の動きがあり、本当のことを見せず、隠し事を思わせる情けない状況の国会になっています。

また技術の面では世界に誇れる日本の大手企業がデーターを改竄し、信用が一気に失墜しています。これでは世界に向けてしっかりと発言できる,力強い日本ではあり得ず、先が思いやられます。「技術だけは日本は確かだ」といつでも言ってもらえる信用が必要です。

今こそ「然り」は「然り」。「否」は「否」の聖書のお言葉に立ち返る必要があります。

 


 

「だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」

                        (ヨハネ2023

                                                            2018412

                        カトリック大和教会

                        主任司祭 鈴木正夫

 

   御復活祭おめでとうございます。今年も大和教会で御復活の祝いを致しました。「光の祭儀」では新しい火をおこし、復活のろうそくにその火を灯け、暗闇の中を聖堂に入りました。明るいニュースのないこのような時代に、闇を照らすキリストの光はなんとありがたい希望のしるしでしょう!暗闇の隅々までキリストの光が行き渡ってほしいものです

「復活」と言う言葉は、十字架で亡くなられたイエス様が生き返ったと言うことに人々の目を向けさせるものかもしれませんが、むしろ大切なことは、イエス様の復活が私たちにどんな影響をあたえたかと言うことです。

 聖書を見て一番印象的なことは、復活のイエスと出会った弟子たちが大きく変わったと言うことでしょう。ユダヤ人を恐れて、「自分たちの居る家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ2019)弟子たちが、こともあろうに人々のたくさん集まるエルサレムの神殿まで出て行き宣教し始めるのです。(使徒言行録3章)あまりにも積極的に宣教するので、祭司長・神殿守衛長、サドカイ派の人々は、ペトロとヨハネを牢に入れ、次の日には議員・長老・律法学者の前で尋問されることになります。話はかみ合わず、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令された」(使徒言行録418)のです。これに対して、弟子たちは「神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。私たちは見たこと聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録41920)と大胆です。イエスの復活の姿を見たかどうかは、当事者の証言を信じるしかありませんが、はっきりしていることは、弟子たちが変わったと言うことだけはわかります。証言すればするほど不利な立場になる、あるいは身の危険となることがわかっていても恐れず証言し続け、弟子たちのほとんどが、殉教者となっています。つまり命がけのことをしています。命をかけても惜しくはない何かがそこにあったことは確かです。

 復活とは、人が変化すること、新しくなること、恐れから解放されて、行くべき方向に歩み始めることであると言うことが出来ます。

 ゆるしを告げる福音(良い便り)を告げること。これが復活の出来事の証言内容の中心にあります。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ202223)「自分たちのいる家の戸に鍵をかける」弟子たちにはそれなりの理由があります。ユダヤ人を恐れることもその一つでしょうが、イエスが捕らえられたとき、イエスのことを知らないと否定したり、イエスの弟子であることを否定したりした、ふがいない自分自身への嫌悪ではないだろうか。暗澹たる罪を犯していたのです。「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中にたち【あなた方に平和があるように】と言われた。」(ヨハネ2026)一方的なイエスからのゆるしの宣言でした。人をもっとも人たらしめるものは、絶対者である神から赦され、認められ、肯定されていることではないだろうか。これほど力強い良い知らせ(福音)があることを人に告げること、これが復活の日にイエスから弟子たちに使命としてあたえられたことでした。赦されがたい罪の体験をした弟子が、今度はイエスのゆるしの恵みを人に伝える使命を受けたのです。このつみのゆるしがどれほど福音(よいたより)であるかを赦されたものが一番よく知っていたのではないだろうか。人を非難し、排斥し、無視し、軽んじ、利用し、受け入れ(難民)ることをしない今の世相。それは自分の家の戸に鍵をかけ、だれをも受け入れない暗い孤独の闇の世界のようなものです。このような現代であるがゆえにイエスの復活の出来事があることを告げ知らせ、証する使命が私たちにあります。

 


 

「私が老いて白髪になっても  神よ、どうか捨て去らないでください」

                (詩71.18

201712月25 

大和カトリック教会 

 主任司祭  鈴木正夫

 

 本人だけがカトリック信徒で周りがそうでない場合、どうして良いかわからず不安な気持ちで問い合わせの電話が来る。「長い間、教会に通っていなかったのですが、本人がカトリックなものですので、葬儀はカトリックでやっていただけるものでしょうか」「大丈夫ですよ。今どのような容態ですか。まだ意識ははっきりしていますか。」名前を聞いて調べてみると確かに信徒名簿に記載されている。「葬儀の前に、本人に会わせていただけませんか」葬儀のことで電話したのに、見舞いに来てくれることになり、大変感動される。すでにこの世の生活は終わってしまったと、かたづけられてしまっている印象がある。亡くなる前にして差し上げられることがあることを知らないのです。司祭を呼び、ゆるしと病者の秘跡、できれば御聖体をいただけるということがあるのです。一般信徒でもこのような死に向かう方々のためにできること、すべきことがあることを徹底していく必要あります。信徒でさえ、葬儀の話に重点が置かれ、今人生の終わりを迎えようとしているご本人の切なる思いには至らないことが多い。

 人生には幅広いステージがあり、生まれるとき、育てられるとき、結婚し子供を造り一家を支えていくような時もあります。「日本カトリック司教団」が最近増新版された「いのちへのまなざし」に「老いを生きる」という箇所があります。高齢化社会はこれまで体験のないもので、挑戦として受け止めること。キリスト者として生き生きとして老いていく高齢者の姿を見せることは、次の世代にとって励ましとなることなどが指摘されており、復活の信仰は、この世のいのちですべてが終わるものではなく、人生の究極の目標は、永遠の神との出会いであって、老いと死は神との決定的な出会いをするため、人が通らなければならない関門であるとも指摘しています。この章の終わりに、ヘルマン・ホイベルス神父様の詩があります。少し、紹介しましょう。

 祈る 最上のわざ この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、喋りたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。(・・・)おのれをこの世につなぐくさりを少しずつ外していくのは、真に偉い仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。神は最後に一番良い仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。

 高齢者の中でも、もう何もできなくなった時の思いが綴られているように思います。信仰深くその現実を受け止めようとなさった神父様の信仰が伝わってきます。

 


 

「あなたたちもぶどう園に行きなさい。」(マタイ20,4)

                                                                     2017年10月15日

                        大和カトリック教会

                        主任司祭 鈴木正夫

                                                                  

この数週間の福音朗読では、ブドウ園にまつわる話が続いています。25主日では、「天の国のたとえ」としてぶどう園に働き手を呼び集める雇い主の話です。夜明けに出かけて行き、9時頃出かけて行き、また12時頃と3時頃にも出かけて行き、なんと夕方5時頃にも出かけて行きます。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と呼びかけます。そして彼らにも一日働いた分の賃金を与えるという話です。

 26主日では、「子よ、今日、ぶどう園へいって働きなさい」という二人の息子を持つ父親の話です。「いやです」とこたえた兄でしたが、あとで考え直してでかけました。弟の方は「承知しました」と良い返事はしますが、結局行かなかったという話です。

 27主日では、家の主人が立派なぶどう園を作り、農夫達に貸して、旅に出た話です。旅先から収穫を納めるよう何度も使いを送るが、農夫達は主人からの使いをないがしろにします。最後に主人の息子まで送りますが、殺されてしまいます。

「ブドウ畑で働く。」これはイエスのたとえ話の特徴のように思われます。それぞれの話には、固有の話の主題がありますが、ブドウ畑で展開する働き手とぶどう園の主人との関係が扱われていることに気づきます。最後のぶどう園と農夫の話は、そもそも、本来のぶどう園が誰のものかを認めない話となっています。働いて得たぶどうの収穫は自分たちのものであると言う考え方です。現代の私たちの世界と似ています。親の愛情によって生まれ、育てられ、教育され、大学を出、その結果、自己実現とか言って自分の好きな未来を築こうとしています。神に感謝したり、親や社会に感謝したりすることなく、自分の努力によってすべてがあると思っています。格差社会と言われ、賢いものが繁栄を享受し、運の悪いものは非正規社員として安月給をもらうしかないという構図になってしまっています。でもこの世のすべては「主のぶどう畑」と理解し、収穫のすべては主のものと、とらえるべきものでしょう。この世は、健康で生まれたり、病弱で生まれたり、戦争のただ中で生まれたり、虐げられている民族の中に生まれたりしているのです。本人の選択をこえるものです。「頑張った、頑張らなかった」のレベルを超えているものです。

 「あなたたちもぶどう園に行きなさい」という呼びかけは、「主が居られるぶどう園の中で働きなさい」という信仰生活へのよびかけととらえられます。25主日の福音では、何度も何度も働き手を呼び集めに来るぶどう園の主人の話です。夕方5時頃ではもう働く時間は残っていないのに、それでも「あなたたちもぶどう園に行きなさい」(7節)と夜明け頃に雇った人々と同じ呼びかけをしています。そんな彼らにも一日分の給料を払うというお話です。

 26主日では、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」(マタイ2128)と親としての呼びかけをしています。「いやです」とこたえますが、あとで考え直して、出かけます。「お父さん、承知しました」と返事し、行かなかった弟のようであってはならないのです。

 


 

 

人は目に映ることを見るが、主は心によって見る

                                                          1サムエル16,7

                                                                       2017724

                                                                     大和カトリック教会 

                                                            主任司祭  鈴木正夫

 

梅雨明け宣言がありました。気象庁の宣言は、お墨付きということでしょうか、一般市民はそれによって「夏到来」とか、「本格的夏」とかで、なんとなく納得させられたような気がします。しかし、すでに梅雨の間から照り続く暑い現実は何の変りもありません。

 6月から7月にかけて、葬儀が続きました。何度か見舞ったことのある方の死だったり、生前お会いしていない方の葬儀であったりもします。どの葬儀も式までには、亡くなった方の人柄、どのような生涯だったのかを身近な人に聞きます。やさしかった。一緒に旅行した。花が好きだった。カラオケが好きだった。映画が好きだった。などいろいろです。どれも、亡くなった人とのパーソナルな関係から出てくる人柄です。そこには、一人の人がどのようなことに興味を持ち、どんなことをこころざし、どんな個性の人で、家族から、特に伴侶からどれほど愛された人生であったかが浮き彫りにされてきます。

 葬儀ではありませんが、バングラデシュにてISに撃たれた田中宏さんの一周忌の追悼ミサは印象的でした。

長年にわたり蓄えてきた日本の鉄道知識・技術を現地の交通インフラの立ち上げの指導に当たるため、日本からのボランティアとして自分から志願されました。80歳でした。当然派遣隊要員として、どうやって選考にクリア―したのか訊きました。体力維持のため毎日何百メートルも泳ぐ等の努力をし、鍛えていたとのこと。生来の努力・節制の人であった田中さんは十分な資質を持っていたとのこと。それなのに、どうしてこのような方を? 理不尽極まりない出来事でした。

 最近はパラリンピックの大会もポピュラーになり、テレビでもよく報道されているようになりました。スポーツ界では優勝あるのみ、金以外に求めるものはない。結果が全てという考え方が蔓延しています。メダルを何個とるかは、重要なことになっています。

 「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(1サムエル16,7)これは、預言者サムエルが、次の王を選ぶときの話です。王になるにふさわしい容姿をしたエッサイ家の長男エリアブだと思ったとき語られた主のお言葉です。

人は何をしたか、偉業を打ち立てた、財を残した、名声を博したことはたしかに魅力的なことかもしれない。それこそ「目に映ること」です。しかし、田中さんの人生の締めくくりは自分の選択ではなく、自分以外のものでした。神様だけがご覧になっているものです。その一瞬まで、彼が求め続けてきたものはそのまま失われることなく、そのまま残ったと言えます。誰かのために、80歳になっても、隠居ではなく他者のために使われた生涯がわかりやすく見て取れます。人は何をしたかではなく、何を求め、何をしようとしたかが大切です。神様がご覧になっているのはまさにその部分です。


 

心の貧しい人々は幸いである(マタイ5,3)

                                                                           2017522

                                                                        大和カトリック教会 

                                                                              主任司祭  鈴木正夫

 

フランスや韓国の大統領選挙が行われ、その前にはアメリカの大統領が生まれ、今世界は新しいリーダーが誕生している。争点は自国の再建を求めて、右派と呼ばれるグループの活躍が目立ったように思えます。自国の繁栄を第一に、具体的な変化を求める声がその根底にあるように思えます。EU離脱と難民や移民拒否を明確に打ち出した極右政党のルペン候補がマクロン氏に敗れた時「フランス国民は、何も変わらない、これまでの政治を選択した。」と言っていたのが印象的です。若者の失業、格差の問題、移民による具体的な苦労をいつまで抱え続けるのか。厳しい現実に新たに呼び戻されたようにも感じます。マルセル・ゴーシェさん(朝日の耕論)によれば、「社会の中に居場所があると言う感覚。それを人々が持てるようにするのが、国という理念、連帯です。共和主義・民主主義はそうやって人々を統合するためにこそある。ところがグローバル時代にはそれがうまく行かない。民主主義は国という枠組みの中だけでしか機能しない。人々はグローバルからナショナルな枠組みに傾いている。」と分析している。「自由・平等・友愛」を掲げるフランスでは各地でテロ事件が発生し、カトリック国がイスラム主義によって揺さぶられているともいえます。

さて、このようなあまり明るい材料のない時代の中で、むしろ暗いからこそでしょうか、毎日のようにTwitterでメッセージを出し続けているフランシスコ教皇の姿が目を引きます。例えば521日には「平和とは、正義、人間性の総合的促進、人権の尊重、被造物の保護の上に築かれなければならない」と言っています。大変原則的で、しかも最も確かな本質を世界に呼びかけています。北朝鮮の度重なる弾道ミサイル実験に世界はお手上げ状態になっています。アメリカの空母カールビンソンの脅かしがあっても抵抗し続けています。一触即発のそれこそ戦争の臨界状態に達しているような気さえします。平和への道筋を訴える教皇のお言葉は大切です。今「正義」という言葉はあまり流行りません。古臭い言葉のようにひびきます。「正義」とは「その人の物を、その人に返すこと」と学んだ覚えがあります。本来、権利のある人の権利が奪われ、権力とか金力とか、政治的利害関係、あるいは暴力でうばい去られているのです。「一帯一路」構想で中国が世界の国々を経済でまとめようとしています。唯一インドがそれに反対しています。中国の政策は中国中心であり他の国々同志とのつながりが考えられていない。すでにスリランカは中国からの高額な借金によって国の産業を発展させてきた、その見返りに99年間膨大な土地を中国に貸し与えなければならない状態になっている。目先の経済発展のみに引き寄せられ、国土そのものが失われかねない戦略がそこには見え隠れしています。決して平和への呼びかけとは思えません。

 人は権力を持ちたがり、人を支配したがる傾向があります。これを強い者が世を支配すると見るか、人の弱さが人を支配するととらえるかです。「心の貧しい人」は自分が何者かよく知っており、人のものや人の権利をはっきりと人のものとして尊重する人です。


 

あなたはいかなる像も造ってはならない (出エジプト20,4)

 

 2017年3月2日

大和カトリック教会

主任司祭  鈴木正夫

 

   大変にぎわうクアラルンプールの空港でキム・ジョンナンさんが殺害され、大きな衝撃が走りました。ニュースによれば、北の工作員たちの用意周到な計画的犯罪でした。北朝鮮のジョンウンの指示であると言われています。そうならば、兄弟殺しの地獄絵を見るような出来事です。「お前の弟アベルはどこにいるのか」(創世記4,9) 大昔の物語ではなく、現在においても権力の座を確実にするため血縁関係を完全に断たねばならないと思い、それを実行してしまう悲しい人間の性を思い起こさせる出来事でした。他国との良いつながりを構築するより、核実験やミサエルを飛ばすことによって存在感を示そうとしている危なかしい政治手腕は、ますます孤立を深め、国を危うくさせているように思います。金日成 金正日 金正恩と三代にわたって血縁関係で国を治め、それを自己の使命とばかりにきっと信じ込んでいるのでしょう。自分こそ国を守る人間であると。沢山の人を容赦なく罰し、処刑にするのも国を守ると言う大義であり、兄を殺害するにもちゃんとした大義があると言うことでしょう。

 NHKBS1スペシャル番組で、アウシュビッツで案内役をしている日本人のことを知りました。中谷剛さんです。「涙を流すより、考えよう」と言う言葉が印象的でした。当時の受刑者であり、かつての自分の案内の指導をしてくださった方の切実なことばだそうです。番組の中で、強制収容所からすぐ近くに立派な屋敷が見えていました。「あれが、当時収容所の所長を務めていた某氏の家です。奥さんを愛し、子ども4人居て…」の説明があり、まったく家族を大切にし、立派な生活をしていたと言うことです。それでも日々の仕事は何千と言う人間をガス室に送り、焼却処分にすることであったと言うことです。

 人はどこから狂ってくるのか。時代の流れに迎合し、自分自身は傷つかず、社会の勝ち組と自認し、そしてそれを良しとする大義(偶像)を拝み続けたと言えるかもしれません。

 出エジプト記にシナイの山で主から「十戒」をいただいたことが語られています。「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる偶像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(出エジプト20,35)本当のことでない物を、本当とすりちがえてそれを神のように拝み続けることは人間のおちいりやすいことであることを教えている箇所です。自分の存在にとって危険となるものを排除(殺害)し、自分が中心()として権力を握ることは、過去の歴史の中で何度も現れたことでした。ヒトラーのように、当の本人もそれに従う大衆もそのような雰囲気(大義)に酔いしれ、排他的となり、逆らうもの、役に立たないものを容赦なく殺してしまいます。今世界中が保護主義的になってきました。「偉大なアメリカをとりもどす」と主張している新大統領の言っている「偉大なアメリカ」とはどのようなことを言っているのでしょうか。白人支配の国のことでしょうか。フランスやオランダにも極右政党が頭をもたげてきています。みんなが勝手なことを主張し合う時代になるのでしょうか。神のいないむなしい偶像をつくり、その神を拝み始めているように思えるのです。


最近は葬儀や納骨の話が多く、ほぼ週に一度のペースで実施されている。それと関連して、危篤の知らせがあり、病院・ホーム等を訪れ、「病者の塗油」を授けることも多い。これを書いている本日も訪問の予定が入っている。

 

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか  (マタイ16,26)

 

 2016年10月20日

大和カトリック教会

主任司祭  鈴木正夫

                                                           

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞し話題になっています。彼のギターやハーモニカによって歌われるその歌詞は大変鮮烈なものがあり、時代の流れに批判を持つ若者たちの思いを代弁するものでした。「風に吹かれて」はよく知られた代表作です。この曲の詩の内容は、質問形式になっていて、答えが「風に吹かれて」になっています。「人は、どれほどの道を行けば、人らしい人と出会えるのか」(意訳)と言う切り口になっています。この時代の歌詞は、主語を「人は」と言う3人称になっていることが多いような気がします。つまり、「私は」と言う一人称の世界ではないと言うことです。「そもそも人はどうあらねばならないか」を問う内容です。人のあり方を問うているのです。「いつまで人は悪い事と知りつつ、知らん顔しているのか」とも問うています。どの答えも「風に吹かれて」となっています。ここではきっといいかげんになっているとでも言っているのでしょう。この曲は彼が21歳の時に作詞されたと言われています。果たして75歳になった今、彼自身はその問いのため、どのように意識しながらこれまで生きて来たのか聞いてみたものです。

 「人は、全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」との問いかけは、イエスの問いかけです。この言葉によって、フランシスコ・ザビエルは自分の描いていた人生計画を一変させ、初期のイエズス会の創立メンバーの一人となり、宣教のため荒波に身をゆだね、東洋航路の船団の一員となったと言われています。一度ヨーロッパから出かけ二度と本国には戻らず、中国近くのサンチャン島で生涯を終えています。 

 「人は」と言う問いかけは人それぞれに受け止め方が違っています。まるで他人事のように受け止め、自分自身の問題としては全く受け止められていないのが現状のように思えます。普遍的価値を問うより、個人の価値を主張する時代に変化しています。

「私」と言う主語となれば事情が違います。この私の主張、この私らしさを発信するのが現代の風潮と言ってよいでしょう。個人の主張、個人の好み、個人の権利、個人の感情を発信できる情報システムがそれをよりたやすくしています。社会全体が個人化していると言っても良いと思われます。それはたしかに良い面もありますが、わがまま化しているともいえます。

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」(マタイ16,24)とのイエスの呼びかけは、「私」を中心とする自己主張の態度ではかみ合わないことが分かります。

 主張する前に、口を開く前に、先ず「みことば」に聞くことから始める必要があります。カトリックの伝統には「沈黙」と言う大切な遺産があります。マリアが天使ガブリエルの挨拶の言葉を聞き「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(ルカ129)とあります。沈黙のうちに「神か

らのみ言葉」に考え込むこと、「人」とはだれであり、どうすべき存在なのかをマリアのように考え込む沈黙の時間が、こんな時代だからこそ大切です。


 

心の貧しい人々は、幸いである(マタイ53)

 2016年8月17日

大和カトリック教会

主任司祭 鈴木正夫

 

来年27日に高山右近が福者殉教者に上げられる。血を流して殺されたわけではなく、追放されフィリピンに渡り、すぐになくなっている。当時の「殉教者の心得」には血を流すことがなくとも信仰のため命を捧げたものは「殉教者」であることが書かれている。

為政者の家庭に生まれ、戦国の裏切りと家督を守るための戦略に満ちた時代の武将であり、普通のキリスト者として生きることだけではない。それこそ特殊な「召命」を生き抜いた信仰者であった。

1573(元亀4年)には、猜疑心のため家老職にあった高山家の暗殺を謀った城主和田惟長と命がけの闘いをしている。九死に一生を得て、結果的には高槻の城主に着く。荒木村重の傘下にあった高槻城主であったため、新しい火種が起こる。それは荒木村重が信長に謀反を起こしたからである。信長にとって高槻は村重を打つための最初の城塞であった。信長に伴天連やすべてのキリシタンを殺害すると脅かされ、右近は髪を切り、一人信長に身を任せる。信長の意に沿い殺されることなく、結果、伴天連やキリシタンの命は保証された。

明智光秀の謀反により信長が殺害された時、明智の味方に迎合せず、秀吉側として山崎の合戦で先陣を切って闘い、軍師としての頭角を現している。秀吉からも一目置かれる存在であった。時代の読みが的確で、大変狡猾な面も併せ持っていたともいえる。

1587年秀吉の「伴天連追放令」の時、「デウスを選ぶか、秀吉を選ぶか」と問われたとき躊躇することなく「デウス」を選ぶことを宣言し、ここから決定的に城主の身分を失い、単なる浪人の身分となっていく。領地は没収され、転々としてかつての武将たちの地に移り住むことになり最後に前田利家に招かれる。そこでも北条との戦いで軍師としての力量を発揮している。茶人としての千利休の7哲の一人としての名誉ある文化人としての誇りもまだ持ち合わせていた。

関ヶ原の闘いを境に徳川家康の時代となり、1614年のキリシタン禁教、伴天連追放令が出された。もう誰も右近をかばい切れなく、家康の命令に従い、大阪から長崎に船で渡り、そしてフィリピンに渡ることを余儀なくされた。

右近の信仰の旅路は深められ、清められて行くプロセスがうかがえる。ユスト高山右近列聖申請代理人であるAnton Witwerさんの基調講演の記事の中に、「自分の能力や行為に根ざす誤った自信から右近を開放し、神への愛を実感させる。…人は誰しも自愛心、我意、利己心から離れれば離れるほど、霊的なことがらにおいて進歩すると考えるべきである。」と言う箇所がある。

山上の説教の真福八端の第一声は「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」となっている。心貧しくあることはイエスの福音の教えの真髄と言える部分です。たとえ社会的に認められた自分の功績や名誉であっても、そこに軸を置いている限り天の国に入ることはできない。自分のものを全て失い、自分に頼るものがまったく失われた時、まさにそのときこそ神の恵みがその人を満たすことになる。

老齢、危篤にある信徒を病院や養老院に見舞う時「もはや、何の役にも立たない、つまらない自分」と自己を悲観する言葉をよく聞くことがある。そんなことはない。きっとそのような人に限ってこれまで活躍し、人のために役に立つ生き方の出来た人なのでしょう。しかし、今は何もできない自分であるからこそ、ただ神のあわれみと、いつくしみが自分を満たすことを全面的に信じることが大切なのである。

 

 


あなた方が私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。(ヨハネ6,26

 2016年5月18日

大和カトリック教会

主任司祭 鈴木正夫

 

「聖母の月」にあたり、幼稚園の子供たちにマリア様についてお話をしました。カナの婚宴のさわりをはなし、マリア様がイエス様への力強いとりなし者であることを話した後、みなさんはマリア様にどんなお願いをしますか、大好きな「いちご」をくださいとお願いしますか、それとも「お友達を大切にできるやさしい子供になれますように」とお願いしますか。あとで、担任の反応ですが、ある子がどうしても「いちご」が欲しいと言い張ったそうです。微笑ましい幼稚園生活の一幕です。さて、私は何が欲しいのか、どんな恵みをマリア様に取り次いでもらいたいのか。

わずかなパンで大勢の群衆を満腹させ、それでもパンはありあまるほどであったイエスの奇跡の話は、4つの福音書全部に書かれてあるお話しです。どの福音書にもこの記事が書かれていることからしても、パンの増加のお話は重要なお話なのでしょう。

体の胃袋を満たす物質的なパンだけを見るのではなく、人としての深い飢えを満たすことのできる糧に目を向けること、つまり「しるし」を見るようイエスが語られています。

「人はパンだけで生きるものではない」と申命記8,3にある。この箇所はまたイエスが荒れ野で誘惑されたときサタンに応えた言葉にもなっています。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申8,3)とあるように、「苦しみ、飢えは」主が与え、得体のしれないマナでも食べてその場をしのぎ、それでもやってくる苦しみと飢えの目的は「主の口から出るすべてのことば」であり、それこそ人を生かすものであることを人に学ばせるためであると説明しています。

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなた方に与える食べ物である」(ヨハネ6,27)そして「わたしが命のパンである。私のもとに来るものは決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6,35)とイエスは語られています。旧約聖書から一貫して「パン」の話があり、朽ちることのない、永遠に続く命のパンをいただくよう招かれています。このようなイエスの話に「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」60節「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」66

イエスと共に歩むことはむつかしいことでもあります。イエスご自身が居られる時から理解されないことがあり、最初は魅力的でついてきた弟子たちであってもイエスを置いて離れ去って行ったことも書かれています。

私たちは洗礼の恵みを受け、教会を中心とし、秘跡に支えられながらイエスと共にこの世を旅するものです。信仰によって「しるし」を読み解こうとするイエスの弟子です。

 


 

 

 

二人の目が開け、イエスだと分かった (ルカ24,31

 

2016年3月11日

大和カトリック教会

主任司祭 鈴木正夫

 

311の東日本大震災があって5年経ちました。本日311日の新聞によれば、避難生活をしている方々は17万人以上、遺体の見つかっていない方々はまだ2561名おられるそうです。「この海のどこかに息子は眠っている」「骨のひとかけらでも何でもいい。息子が『いた』という証がほしい」その息子さんは消防団員でいち早く市役所に駆けつけ、お年寄りを屋上までおぶって運んだ後、別の人の救助に向かって津波にのまれました。墓に納める骨はない。野球のボールを一つ入れたそうです。息子さんが『いた』という証は、親として何としてでも留めておきたい切実な思いであることが伝わってきます。黙祷。

 

さて、聖書のお話です。マルコ福音書によれば、復活の朝早くマグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメはイエスの墓に行きます。「イエスに油を塗るために香油を買って、週の始めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」(マルコ16,12)とあります。やはり彼女たちもイエスが『いた』という何らかの手ごたえがほしかったのでしょう。「ところが、目を上げて見ると、石はすでにわきへころがしてあり、墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。『驚くことはない。あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ごらんなさい。お納めした場所である』と説明し「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ164-7)告げられたということです。婦人たちは震え上がり、正気を失い、だれにも何も言わなかったと続いています。

 

 確かに『いた』イエス。十字架にかけられて死に、墓に葬られたにしても、そのイエスの遺体に油を塗り、その遺体にでも触れることによってイエスが『いた』ことの何らかの手がかりが欲しいところです。白い長い衣を着た若者は、『あの方は復活なさって、ここにはおられない。ガリラヤでお目にかかれる』と告げています。白い長い衣の若者は天使と思われます。聖書では単なる人間の次元を超えた神様の次元を説明する役割を持つのが天使です。ガリラヤは弟子たちの日頃の生活の場所です。そこで亡くなられたはずのイエスにお目にかかれると天使は告げています。過去の『いた』イエスの遺体に油を塗ることはもう必要がないどころか、自分たちの日常生活の場であるホームグランドで『いる』イエスと出あえることが復活の出来事の本質となっています。「ガリラヤでお目にかかれる」と言うのですから、イエスに出あうためにはやはり、普段のガリラヤへ戻る必要があります。

 

大和の教会はこれから復活祭を迎えるために枝の主日、聖なる三日間の典礼を祝おうとしています。過去のイエスの『骨のかけら』を探すのではなく、いのちに満ちた、生きた復活のイエスと出あうことがこの祝いの中心です。ルカ福音書24章にあるように、エルサレムから出てエマオへ向かう弟子が、エルサレムで起こった一切の出来事について話し合っていました。イエスご自身が一緒に歩きはじめられ、聖書全体について説明されます。イエスとは知らず「一緒にお泊り下さい」と無理に請います。そして宿でパンを割く時、二人の目が開けイエスだと分かりました。今年の復活祭、私たちもイエスの出来事を話し合い、論じ合い、パンを割くミサを通して復活のイエスと出あいましょう。

 

 


 

もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。

(ルカ19,42

 

 

 2016128

大和カトリック教会

主任司祭 鈴木正夫

 

 世界ではアッラーの名によってたくさんの人々の命が失われています。カトリックをはじめ他のキリスト系の人々がイスラム国のターゲットとなっています。その仲間、あるいはそれに誘発された過激集団が世界中に飛び火し、あのパリ事件以降もホテル 学校 大学 繁華街で乱射事件 自爆テロが絶えません。若い多くの人々がこのために命を賭けているようです。彼らは本当に神を求めているのでしょうか。どんな神を信奉しているのでしょうか。

  神へのあこがれは人間の心に刻まれています」とカトリック教会のカテキズムの冒頭に書かれています。人間は神を「知ることができる」とも書いています。世界にはたくさんの宗教があり、それぞれの宗教が自分たちの信じる神を大切にしています。

 本日128日は聖トマス・アクイナスの記念日です。彼は人間の理性を使って神の存在を証明する五つの道(クインクエヴィエ)を書いています。これは哲学的証明です。

 さて、私たちカトリック教会が信じている神とは一体どのような神なのでしょうか。それは、聖書と聖伝によって裏付けられたものです。神を知るには、イエスが教えてくださった神を知ることです。その神は人間にとって父である神様です。「イエスを通して父なる神を知る」これこそ私たちの信仰のあり方の基本です。

 神を父と呼び、神の御心が行われる世界になるよう教え、人間の弱さゆえ犯した過ちを互いに許しあえるよう祈ることを教えてくださいました。父なる神は人を愛すること、とりわけ小さなもの、弱いもの、傷ついているものを愛していることを教えるため、ご自分の子であるイエスによってそれを証しました。十字架はその極みです。

 使徒言行録の4章に、ペトロとヨハネがイエスの復活について話していると神殿守衛長らにつかまり、牢に入れられたことが書かれています。次の日、議員、長老、律法学者、大祭司、つまり宗教の権威者の前でペトロは言っています。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」と宣言しています。

 ペトロたちの宣教の一番の関心事は「救われる」ことにあるようです。理屈で見えない神の本性を知ることより、この私が「救われること」そしてあなたが「救われること」が大切なのです。父親のように自分を呼んでくださっている神を見失い、神のいない生活を送り、人を大切にせず、ただ自分のために人を利用し、自分から人を愛することをせず、人からなんでもしてもらうことを当然とし、よく嘘をつき、裏切り、人を憎み、仕返しをしてしまう。そんな状況から「救われること」が大切なのです。

   今イスラム国のリクルートに触発され、暴力とテロの手ほどきを受けるために多くの若者たちがうごめいています。病んでいます。今はジハードを呼びかける神の名でなく、イエスの教えた神の名をよぶことが重要です。イエスの名だけが「救い」の糸口です。

 


 

 

   私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。  

                         (マタイ2,2 

 

 20151216

大和カトリック教会

 主任司祭 鈴木正夫

 

フランシスコ教皇のニュースが新聞やテレビで報道されることが随分多くなったことを実感しています。アメリカ合衆国では両院議員の前で演説し、治安の一番よくないアフリカ3ヶ国を訪問されたことはとても印象的です。教会内部に留まるのではなく、世界に向かって積極的に強烈なメッセージを伝えようとされておられる様子がうかがえます。

  東方でその方の星を見た」と言っているのは有名な3人の博士のお話です。どのような星が出て、東方の博士たちは旅立ったのでしょうか。イエス誕生物語は、待ちわびたメシア(神の子)の到来のお話ですが、社会の人々から無視され、気付かれにくいと言うお話になっています。宿屋に泊れず、馬小屋でとか、突然の天使の出現でもなければ羊飼いたちにはわからないようなお話もあります。かれらは社会的には低い身分の人々でした。 

聖書が書き残しているこのようなお話は、イエス様の到来はあまり気付かれにくいと言うことが前提にあるように思います。「何とか気付いてほしい。だって遠くの方が気づいておがみに来ているのですよ」と言っているようにも読めます。

  パリの同時多発テロがあり、世界中が憎しみに満ちています。憎しみが報復を生みその報復から新たな憎しみが起こります。たしかにコンサートを楽しんでいるときに突然銃に撃たれ、愛する人を亡くすような理不尽で、理解不可能な出来事には唖然とさせられます。今はこのようなわけのわからないことで世界中が怒りと、憎しみにおちいりやすい危険な時なのかもしれません。挑発に乗らないことが大切です。これが、今私たちが住んでいる人間の世界の現状です。 

  さてイエスの誕生と言えば、愛・ゆるし・和解・謙虚さの誕生でもあります。このようなイエスの説く御言葉は今の私たちには絵空事に見え、きれいすぎにも思えます。今はこれを説くイエスに気付くのはとてもむつかしい時なのかもしれません。そうだとしても、愛・ゆるし・和解はどうしても人類が学ばないといけない大切な宝物です。「たとえ地獄の力が解き放たれようとも、キリスト者は呼びかけに応じて立ち上がり、頭を高く保ち、攻撃に立ち向かう備えをしなければなりません。この戦いでは、神が最後には勝利されます。その決定的な言葉は愛と平和です」。これはフランシスコ教皇が、テロ活動盛んな危険地帯と知りながら、あえてそこへ旅立たれ、中央アフリカ共和国のバンギで語られたことばです。命がけのメッセージと受け止めるべきものでしょう。

降誕祭とは、遠い道のりですが、三人の博士たちのように、わたしたちも見えにくい星をたよりに旅立ち、イエスを発見して,イエスをおがみ、愛すること、ゆるしあうこと、和解することをしっかり教えていただくときなのでしょう。

 


 

新しい典礼年、「特別聖年」への招き

 

2015年10月30日

大和カトリック教会

主任司祭 鈴木正夫

 

昨年当教会に着任し、一年以上が経過いたしました。不慣れな小教区の仕事にいまだ四苦八苦しています。外国籍の方の多い教会と言うこともあり、一人ひとりのお顔とお名前がまだ十分に理解されていない状態です。出来るだけたくさんの方々と出会い、お顔とお名前を憶えたいと思っているところです。

 カトリック教会では1129日に待降節を迎え、典礼的に新しい年を迎えます。カトリック教会の頭であられるフランシスコ教皇様は、来るべき新しい典礼年を「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」の「聖年」とさだめました。128日の無原罪のマリア様の祭日に始まり、来年の1120日の「王であるキリスト」をもって締めくくるようになっています。全世界のすべてのカトリック信徒に「いつくしみ深い神様の恵み」に目を向けるよう私たちを招かれています。

 さて、大和カトリック教会においても教皇様の呼びかけに応え、共に祈り、信仰を深め、イエス様のお顔にあらわれる、天の御父の慈しみを共に探し求めたいとおもっています。なんといっても、主日の「ミサ」は私たちにとって一番のよりどころです。ご聖体の秘跡によるイエス様との出会い、父なる神様との出会いをもたらすミサは大切極まりないものです。

 父と子と聖霊の御名によって洗礼を受け、新しいいのちの恵みを受けたあのすばらしい出来事のあった日を想い起こし、来るべき新しい典礼の年を、大和の教会共同体と一緒に始めるようお招きします。主日のミサは、土曜日6時・日曜日7時・9時半と3回あります。その他外国語ミサもあります。是非、教会においでください。お待ちしています。

 


 

 

近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ…介抱した(ルカ10,33

 

 金木犀の香りが教会を包んでいます。この香を嗅ぐときいつも思い出す光景があります。

 

 調布の神学校時代の事。小さき聖テレジアの祝日には必ず調布深大寺にある女子カルメルの修道院に行っていました。たしか早朝5時半か6時のミサなので人気もなく、スータン(黒の長い神父服)を着たまま一般道路を歩いて行く先輩神学生も居ました。きっと見た人は不気味に思ったかもしれません。木造のひなびた聖堂で、格子の扉が開かれシスターたちのお顔がよく見え、カルメル修道院の日々祈りに鍛えられた達観されたご様子に感激しながらミサに与ったものでした。

 

 小さき聖テレジアは狭い修道院に居ながら、宣教者の保護者となりました。院長の命令で書いた彼女の「自叙伝」が瞬く間に世界に知られ、彼女へ取次の祈りを願って世界中から沢山の手紙が届くようになりました。一日に千通を超えるようになったと言われています。小さな修道院に居ながら、自分は直接行けなくとも、世界の苦しみに思いを馳せ、イエスの暖かい癒しと慰めをもたらすため、そこへ向かう宣教師達のため、祈りによる後押ししました。

 

 時代も変わり、現代は世界の情報が即座に伝わっています。その情報は映像を交えより詳しく伝わってきます。カトリック教会のトップであるフランシスコ教皇の目下の呼びかけは、具体的な難民受け入れについてです。ヨーロッパに押し寄せる何十万もの難民を受け入れることはドイツ1国だけでは無理であり、各国に受け入れを呼びかけています。人への愛と言うきれいなお題目を唱えるのはやさしいことですが、具体的な受け入れにまつわる経済的出費を資産をするだけでも、腰が引けてしまうと言うことでしょう。サレジオ会レベルでも教皇の呼びかけに答え、具体的に動くよう呼びかけられています。ドイツ・フランス・スペイン・オーストラリアからの情報ではすでに数家族の受け入れに手を挙げています。また、学校としての受け入れ、経済支援、仕事の斡旋等、そのための受け入れプロジェクトチーム(窓口)が発足しています。どの国でも共通していることは、「具体的な実践」に取り組むと言うことです。計算深く、問題が起こらないよう石橋をたたき、それでも渡らない経済大国日本と大きく違っています。

 

 おびただしい難民がまだまだヨーロパ方面に向けて移動しています。何百キロの陸路を歩き続ける親子連れや、すし詰め状態の難民船が地中海をさまよっています。その現実を突きつける映像が流されても私たち日本人があまり具体的に行動を起こさないのは、遠いヨーロッパで起こっている出来事だからでしょうか。あるいは、そもそも信仰とは教会で祈り、秘跡に参加することであり、このような社会活動は政治の問題であり、国が取り扱う問題であり、教会ではないと割り切っているからでしょうか。

 

 「道の向こう側」を通って行った、神様と近しいはずの祭司やレビ人は追剥ぎにあった人の隣人にはなれませんでした。反対にユダヤ人から嫌われ者のサマリア人が「側に来て、その人を見て、あわれに思い、近寄って油とぶどう酒を注いだ」のでした。

 

20151010

主任司祭 鈴木正夫

 

 

 


 

 

あなたの指で創られた月と星を眺めて思います。人とは何者か。                                (詩編8章)

 

この夏も若者たちの合宿に参加しました。「第七地区のリダー養成キャンプ」「野尻湖聖書学校」(男子対象・サレジオ主催)「フォルティッシモ・イン・NOJIRI(女子対象・サレジアンシスターズ主催)でした。およそ120名の若者とそれにかかわるリーダーを入れれば150名以上の方々と数日間を共に過ごすことができました。もちろん、信徒対象の集まりですのでミサ・研修講話・歌・リクレーション活動が中心の活動です。

 

 カトリックと言う同じ信仰に結ばれた若者たちの集まりは、学校主催の夏季キャンプなどと少し違った特別なものがあります。

ひとことで「世の中は」と、くくれないのですが、「世の中は」コントロールの利かない世界経済の原理に支配され、政治も否応なくそれに動かされているように思います。若者たちの世界といえば、スマホを中心としたコムケーションツールを持たされ、自分の世界で気の合う友達との密なやり取り、また興味あるゲームや音楽・芸能関係・スポーツ関係の話題で頭をいっぱいにしているようにも思います。両耳はイヤホンにふさがれ、すぐ隣の人の言葉は聞こえないようにもなっています。

 

さて野尻湖のキャンプサイトは森に覆われ、湧き水と言われているように、水質がよく大変澄んでいます。セミの鳴き声、岸に押し寄せるさざ波の音、木々の間を吹き抜ける風の音、野鳥たちのさえずりはまさに自然のただなかに若者たちを包み込みます。命あるものすべてのものの原点に目を向けさせる場とも言えます。自分が誰で、どこからきて、どこへ向かっている存在なのかをおのずと思わせる又とない環境と言えます。

 

普段一緒ではない若者たちが互いに出会い、一緒に遊び、作業し,食べ、祈る体験も得難い恵みの体験です。時間を守ること、当番を果たすこと、掃除すること、静かにし沈黙を守ることなど、すべてこれまでの個人的生活と違い一緒に過ごす他の人との協調が求められます。

 

10年ごろ前の中高生の質と今頃の中高生の質が少し変わってきたように感じます。隠れてスマホを使ったり、ゲーム楽しんだりする者が少なくなってきたように感じます。むしろ、あたらしい人間関係に興味を持ち、一緒にゲームすることを素直に楽しめるような雰囲気になってきたように思えます。人の手でつくられた人工物によって日々生きている世界より、人の手でつくられたものではない自然をはじめ、これまで出会ったことのない新しい人間との出会いはもっと興味深いものなのではないかとも解釈できます。

 

今年は満天の星はおがめませんでした。自分が生まれる前から、何億年も前からあった星や月、そして自分が居なくなってもあり続けであろう宇宙の星々を眺め、ちっぽけな自分の存在をどのように理解すればいいのか。小さな地球の、しかも何十億人の一人にすぎない自分がどんな存在の意味を持つのか。このちっぽけな私に心をかけて下さるお方がいらっしゃるとは。若者であるからこそ、自分の存在の不思議と出会い、背後におられる神の存在をストレートに思索する夏合宿となることを願っています。 

2015815

主任司祭 鈴木正夫

 


 

◆あなた方は地上に富を積んではならない。(マタイ619

 

  円安があり、輸出が増え、経済界では少し上昇気味となり、雇用も増えつつあります。不況から脱出し、好景気になればよいとみんな思っています。「全国津々浦々まで…」と言う言葉も印象的です。

 

 この世で生きて行くために、財産(お金)抜きにはやっていけません。お金があってこそまともな社会生活が成り立ち、子供たちへの教育が行われます。生活費を獲得するためには仕事に就く必要があります。正規雇用や非正規雇用の問題。若い人の将来性のないバイト生活は結婚生活を困難にし、安定した社会を構築しにくくしています。

 

 さて、「富は天に積みなさい」とイエスは教えています。天に積むことのできる「富」とは何でしょうか。天に積まれた富は「虫が食ったり、さび付いたり、盗人が忍び込んで盗み出すこと」はないと聖書は語っています。

 

 虫のつかない、さび付かない「富」はこの世の財産と次元を異にするものなのでしょう。書かれている聖書の流れから解釈すると、「施し」をするなら人目につかないように。「祈り」をするなら人に見てもらうようなところでしないように。「断食」をするときは、いかにも断食をしているかのような恰好をしないように。と言う教えがその前にあります。つまり「偽善的」なことが無いようにと言う教えです。宗教的行為で大変すばらしい「施し」「祈り」「断食」なのですが、どんな素晴らしい良い行為でも、どこか下心が見えるのが人間の悲しい現実です。

 

 地上の富は目に見えますが、天上に積む富は目に見えるものではありません。夫婦の間に生じたちょっとした感情の行き違いで、会話が途絶えた時、自分の方から思い切って話しかけ、新たな関係を作り上げようと心砕いたこと。ぐずって、わけわからず泣き続けるわが子に、怒鳴りたくなった時、それでも落ち着いて丁寧に対応したこと。色々なことが日々起こってきます。明るく振舞い、笑顔を絶やさず、周りに平和と安らぎを醸し出す方もいます。誰にも気づかれず、評価されることはないかもしれません。天に宝を積むとはこのようなことを指しているのです。神様だけがご覧になっておられる天の宝です。

 

 

201576

主任司祭 鈴木正夫