主任司祭からのメッセージ

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 人は目に映ることを見るが、主は心によって見る

                                                          1サムエル16,7

                                                                       2017724

                                                                     大和カトリック教会 

                                                            主任司祭  鈴木正夫

 

梅雨明け宣言がありました。気象庁の宣言は、お墨付きということでしょうか、一般市民はそれによって「夏到来」とか、「本格的夏」とかで、なんとなく納得させられたような気がします。しかし、すでに梅雨の間から照り続く暑い現実は何の変りもありません。

 6月から7月にかけて、葬儀が続きました。何度か見舞ったことのある方の死だったり、生前お会いしていない方の葬儀であったりもします。どの葬儀も式までには、亡くなった方の人柄、どのような生涯だったのかを身近な人に聞きます。やさしかった。一緒に旅行した。花が好きだった。カラオケが好きだった。映画が好きだった。などいろいろです。どれも、亡くなった人とのパーソナルな関係から出てくる人柄です。そこには、一人の人がどのようなことに興味を持ち、どんなことをこころざし、どんな個性の人で、家族から、特に伴侶からどれほど愛された人生であったかが浮き彫りにされてきます。

 葬儀ではありませんが、バングラデシュにてISに撃たれた田中宏さんの一周忌の追悼ミサは印象的でした。

長年にわたり蓄えてきた日本の鉄道知識・技術を現地の交通インフラの立ち上げの指導に当たるため、日本からのボランティアとして自分から志願されました。80歳でした。当然派遣隊要員として、どうやって選考にクリア―したのか訊きました。体力維持のため毎日何百メートルも泳ぐ等の努力をし、鍛えていたとのこと。生来の努力・節制の人であった田中さんは十分な資質を持っていたとのこと。それなのに、どうしてこのような方を? 理不尽極まりない出来事でした。

 最近はパラリンピックの大会もポピュラーになり、テレビでもよく報道されているようになりました。スポーツ界では優勝あるのみ、金以外に求めるものはない。結果が全てという考え方が蔓延しています。メダルを何個とるかは、重要なことになっています。

 「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(1サムエル16,7)これは、預言者サムエルが、次の王を選ぶときの話です。王になるにふさわしい容姿をしたエッサイ家の長男エリアブだと思ったとき語られた主のお言葉です。

人は何をしたか、偉業を打ち立てた、財を残した、名声を博したことはたしかに魅力的なことかもしれない。それこそ「目に映ること」です。しかし、田中さんの人生の締めくくりは自分の選択ではなく、自分以外のものでした。神様だけがご覧になっているものです。その一瞬まで、彼が求め続けてきたものはそのまま失われることなく、そのまま残ったと言えます。誰かのために、80歳になっても、隠居ではなく他者のために使われた生涯がわかりやすく見て取れます。人は何をしたかではなく、何を求め、何をしようとしたかが大切です。神様がご覧になっているのはまさにその部分です。


 

心の貧しい人々は幸いである(マタイ5,3)

                                                                           2017522

                                                                        大和カトリック教会 

                                                                              主任司祭  鈴木正夫

 

フランスや韓国の大統領選挙が行われ、その前にはアメリカの大統領が生まれ、今世界は新しいリーダーが誕生している。争点は自国の再建を求めて、右派と呼ばれるグループの活躍が目立ったように思えます。自国の繁栄を第一に、具体的な変化を求める声がその根底にあるように思えます。EU離脱と難民や移民拒否を明確に打ち出した極右政党のルペン候補がマクロン氏に敗れた時「フランス国民は、何も変わらない、これまでの政治を選択した。」と言っていたのが印象的です。若者の失業、格差の問題、移民による具体的な苦労をいつまで抱え続けるのか。厳しい現実に新たに呼び戻されたようにも感じます。マルセル・ゴーシェさん(朝日の耕論)によれば、「社会の中に居場所があると言う感覚。それを人々が持てるようにするのが、国という理念、連帯です。共和主義・民主主義はそうやって人々を統合するためにこそある。ところがグローバル時代にはそれがうまく行かない。民主主義は国という枠組みの中だけでしか機能しない。人々はグローバルからナショナルな枠組みに傾いている。」と分析している。「自由・平等・友愛」を掲げるフランスでは各地でテロ事件が発生し、カトリック国がイスラム主義によって揺さぶられているともいえます。

さて、このようなあまり明るい材料のない時代の中で、むしろ暗いからこそでしょうか、毎日のようにTwitterでメッセージを出し続けているフランシスコ教皇の姿が目を引きます。例えば521日には「平和とは、正義、人間性の総合的促進、人権の尊重、被造物の保護の上に築かれなければならない」と言っています。大変原則的で、しかも最も確かな本質を世界に呼びかけています。北朝鮮の度重なる弾道ミサイル実験に世界はお手上げ状態になっています。アメリカの空母カールビンソンの脅かしがあっても抵抗し続けています。一触即発のそれこそ戦争の臨界状態に達しているような気さえします。平和への道筋を訴える教皇のお言葉は大切です。今「正義」という言葉はあまり流行りません。古臭い言葉のようにひびきます。「正義」とは「その人の物を、その人に返すこと」と学んだ覚えがあります。本来、権利のある人の権利が奪われ、権力とか金力とか、政治的利害関係、あるいは暴力でうばい去られているのです。「一帯一路」構想で中国が世界の国々を経済でまとめようとしています。唯一インドがそれに反対しています。中国の政策は中国中心であり他の国々同志とのつながりが考えられていない。すでにスリランカは中国からの高額な借金によって国の産業を発展させてきた、その見返りに99年間膨大な土地を中国に貸し与えなければならない状態になっている。目先の経済発展のみに引き寄せられ、国土そのものが失われかねない戦略がそこには見え隠れしています。決して平和への呼びかけとは思えません。

 人は権力を持ちたがり、人を支配したがる傾向があります。これを強い者が世を支配すると見るか、人の弱さが人を支配するととらえるかです。「心の貧しい人」は自分が何者かよく知っており、人のものや人の権利をはっきりと人のものとして尊重する人です。


 

あなたはいかなる像も造ってはならない (出エジプト20,4)

 

 2017年3月2日

大和カトリック教会

主任司祭  鈴木正夫

 

   大変にぎわうクアラルンプールの空港でキム・ジョンナンさんが殺害され、大きな衝撃が走りました。ニュースによれば、北の工作員たちの用意周到な計画的犯罪でした。北朝鮮のジョンウンの指示であると言われています。そうならば、兄弟殺しの地獄絵を見るような出来事です。「お前の弟アベルはどこにいるのか」(創世記4,9) 大昔の物語ではなく、現在においても権力の座を確実にするため血縁関係を完全に断たねばならないと思い、それを実行してしまう悲しい人間の性を思い起こさせる出来事でした。他国との良いつながりを構築するより、核実験やミサエルを飛ばすことによって存在感を示そうとしている危なかしい政治手腕は、ますます孤立を深め、国を危うくさせているように思います。金日成 金正日 金正恩と三代にわたって血縁関係で国を治め、それを自己の使命とばかりにきっと信じ込んでいるのでしょう。自分こそ国を守る人間であると。沢山の人を容赦なく罰し、処刑にするのも国を守ると言う大義であり、兄を殺害するにもちゃんとした大義があると言うことでしょう。

 NHKBS1スペシャル番組で、アウシュビッツで案内役をしている日本人のことを知りました。中谷剛さんです。「涙を流すより、考えよう」と言う言葉が印象的でした。当時の受刑者であり、かつての自分の案内の指導をしてくださった方の切実なことばだそうです。番組の中で、強制収容所からすぐ近くに立派な屋敷が見えていました。「あれが、当時収容所の所長を務めていた某氏の家です。奥さんを愛し、子ども4人居て…」の説明があり、まったく家族を大切にし、立派な生活をしていたと言うことです。それでも日々の仕事は何千と言う人間をガス室に送り、焼却処分にすることであったと言うことです。

 人はどこから狂ってくるのか。時代の流れに迎合し、自分自身は傷つかず、社会の勝ち組と自認し、そしてそれを良しとする大義(偶像)を拝み続けたと言えるかもしれません。

 出エジプト記にシナイの山で主から「十戒」をいただいたことが語られています。「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる偶像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(出エジプト20,35)本当のことでない物を、本当とすりちがえてそれを神のように拝み続けることは人間のおちいりやすいことであることを教えている箇所です。自分の存在にとって危険となるものを排除(殺害)し、自分が中心()として権力を握ることは、過去の歴史の中で何度も現れたことでした。ヒトラーのように、当の本人もそれに従う大衆もそのような雰囲気(大義)に酔いしれ、排他的となり、逆らうもの、役に立たないものを容赦なく殺してしまいます。今世界中が保護主義的になってきました。「偉大なアメリカをとりもどす」と主張している新大統領の言っている「偉大なアメリカ」とはどのようなことを言っているのでしょうか。白人支配の国のことでしょうか。フランスやオランダにも極右政党が頭をもたげてきています。みんなが勝手なことを主張し合う時代になるのでしょうか。神のいないむなしい偶像をつくり、その神を拝み始めているように思えるのです。


 

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか  (マタイ16,26)

 

 2016年10月20日

大和カトリック教会

主任司祭  鈴木正夫

                                                           

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞し話題になっています。彼のギターやハーモニカによって歌われるその歌詞は大変鮮烈なものがあり、時代の流れに批判を持つ若者たちの思いを代弁するものでした。「風に吹かれて」はよく知られた代表作です。この曲の詩の内容は、質問形式になっていて、答えが「風に吹かれて」になっています。「人は、どれほどの道を行けば、人らしい人と出会えるのか」(意訳)と言う切り口になっています。この時代の歌詞は、主語を「人は」と言う3人称になっていることが多いような気がします。つまり、「私は」と言う一人称の世界ではないと言うことです。「そもそも人はどうあらねばならないか」を問う内容です。人のあり方を問うているのです。「いつまで人は悪い事と知りつつ、知らん顔しているのか」とも問うています。どの答えも「風に吹かれて」となっています。ここではきっといいかげんになっているとでも言っているのでしょう。この曲は彼が21歳の時に作詞されたと言われています。果たして75歳になった今、彼自身はその問いのため、どのように意識しながらこれまで生きて来たのか聞いてみたものです。

 「人は、全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」との問いかけは、イエスの問いかけです。この言葉によって、フランシスコ・ザビエルは自分の描いていた人生計画を一変させ、初期のイエズス会の創立メンバーの一人となり、宣教のため荒波に身をゆだね、東洋航路の船団の一員となったと言われています。一度ヨーロッパから出かけ二度と本国には戻らず、中国近くのサンチャン島で生涯を終えています。 

 「人は」と言う問いかけは人それぞれに受け止め方が違っています。まるで他人事のように受け止め、自分自身の問題としては全く受け止められていないのが現状のように思えます。普遍的価値を問うより、個人の価値を主張する時代に変化しています。

「私」と言う主語となれば事情が違います。この私の主張、この私らしさを発信するのが現代の風潮と言ってよいでしょう。個人の主張、個人の好み、個人の権利、個人の感情を発信できる情報システムがそれをよりたやすくしています。社会全体が個人化していると言っても良いと思われます。それはたしかに良い面もありますが、わがまま化しているともいえます。

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」(マタイ16,24)とのイエスの呼びかけは、「私」を中心とする自己主張の態度ではかみ合わないことが分かります。

 主張する前に、口を開く前に、先ず「みことば」に聞くことから始める必要があります。カトリックの伝統には「沈黙」と言う大切な遺産があります。マリアが天使ガブリエルの挨拶の言葉を聞き「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(ルカ129)とあります。沈黙のうちに「神か

らのみ言葉」に考え込むこと、「人」とはだれであり、どうすべき存在なのかをマリアのように考え込む沈黙の時間が、こんな時代だからこそ大切です。


 

心の貧しい人々は、幸いである(マタイ53)

 2016年8月17日

大和カトリック教会

主任司祭 鈴木正夫

 

来年27日に高山右近が福者殉教者に上げられる。血を流して殺されたわけではなく、追放されフィリピンに渡り、すぐになくなっている。当時の「殉教者の心得」には血を流すことがなくとも信仰のため命を捧げたものは「殉教者」であることが書かれている。

為政者の家庭に生まれ、戦国の裏切りと家督を守るための戦略に満ちた時代の武将であり、普通のキリスト者として生きることだけではない。それこそ特殊な「召命」を生き抜いた信仰者であった。

1573(元亀4年)には、猜疑心のため家老職にあった高山家の暗殺を謀った城主和田惟長と命がけの闘いをしている。九死に一生を得て、結果的には高槻の城主に着く。荒木村重の傘下にあった高槻城主であったため、新しい火種が起こる。それは荒木村重が信長に謀反を起こしたからである。信長にとって高槻は村重を打つための最初の城塞であった。信長に伴天連やすべてのキリシタンを殺害すると脅かされ、右近は髪を切り、一人信長に身を任せる。信長の意に沿い殺されることなく、結果、伴天連やキリシタンの命は保証された。

明智光秀の謀反により信長が殺害された時、明智の味方に迎合せず、秀吉側として山崎の合戦で先陣を切って闘い、軍師としての頭角を現している。秀吉からも一目置かれる存在であった。時代の読みが的確で、大変狡猾な面も併せ持っていたともいえる。

1587年秀吉の「伴天連追放令」の時、「デウスを選ぶか、秀吉を選ぶか」と問われたとき躊躇することなく「デウス」を選ぶことを宣言し、ここから決定的に城主の身分を失い、単なる浪人の身分となっていく。領地は没収され、転々としてかつての武将たちの地に移り住むことになり最後に前田利家に招かれる。そこでも北条との戦いで軍師としての力量を発揮している。茶人としての千利休の7哲の一人としての名誉ある文化人としての誇りもまだ持ち合わせていた。

関ヶ原の闘いを境に徳川家康の時代となり、1614年のキリシタン禁教、伴天連追放令が出された。もう誰も右近をかばい切れなく、家康の命令に従い、大阪から長崎に船で渡り、そしてフィリピンに渡ることを余儀なくされた。

右近の信仰の旅路は深められ、清められて行くプロセスがうかがえる。ユスト高山右近列聖申請代理人であるAnton Witwerさんの基調講演の記事の中に、「自分の能力や行為に根ざす誤った自信から右近を開放し、神への愛を実感させる。…人は誰しも自愛心、我意、利己心から離れれば離れるほど、霊的なことがらにおいて進歩すると考えるべきである。」と言う箇所がある。

山上の説教の真福八端の第一声は「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」となっている。心貧しくあることはイエスの福音の教えの真髄と言える部分です。たとえ社会的に認められた自分の功績や名誉であっても、そこに軸を置いている限り天の国に入ることはできない。自分のものを全て失い、自分に頼るものがまったく失われた時、まさにそのときこそ神の恵みがその人を満たすことになる。

老齢、危篤にある信徒を病院や養老院に見舞う時「もはや、何の役にも立たない、つまらない自分」と自己を悲観する言葉をよく聞くことがある。そんなことはない。きっとそのような人に限ってこれまで活躍し、人のために役に立つ生き方の出来た人なのでしょう。しかし、今は何もできない自分であるからこそ、ただ神のあわれみと、いつくしみが自分を満たすことを全面的に信じることが大切なのである。

 

 


あなた方が私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。(ヨハネ6,26

 2016年5月18日

大和カトリック教会

主任司祭 鈴木正夫

 

「聖母の月」にあたり、幼稚園の子供たちにマリア様についてお話をしました。カナの婚宴のさわりをはなし、マリア様がイエス様への力強いとりなし者であることを話した後、みなさんはマリア様にどんなお願いをしますか、大好きな「いちご」をくださいとお願いしますか、それとも「お友達を大切にできるやさしい子供になれますように」とお願いしますか。あとで、担任の反応ですが、ある子がどうしても「いちご」が欲しいと言い張ったそうです。微笑ましい幼稚園生活の一幕です。さて、私は何が欲しいのか、どんな恵みをマリア様に取り次いでもらいたいのか。

わずかなパンで大勢の群衆を満腹させ、それでもパンはありあまるほどであったイエスの奇跡の話は、4つの福音書全部に書かれてあるお話しです。どの福音書にもこの記事が書かれていることからしても、パンの増加のお話は重要なお話なのでしょう。

体の胃袋を満たす物質的なパンだけを見るのではなく、人としての深い飢えを満たすことのできる糧に目を向けること、つまり「しるし」を見るようイエスが語られています。

「人はパンだけで生きるものではない」と申命記8,3にある。この箇所はまたイエスが荒れ野で誘惑されたときサタンに応えた言葉にもなっています。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申8,3)とあるように、「苦しみ、飢えは」主が与え、得体のしれないマナでも食べてその場をしのぎ、それでもやってくる苦しみと飢えの目的は「主の口から出るすべてのことば」であり、それこそ人を生かすものであることを人に学ばせるためであると説明しています。

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなた方に与える食べ物である」(ヨハネ6,27)そして「わたしが命のパンである。私のもとに来るものは決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6,35)とイエスは語られています。旧約聖書から一貫して「パン」の話があり、朽ちることのない、永遠に続く命のパンをいただくよう招かれています。このようなイエスの話に「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」60節「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」66

イエスと共に歩むことはむつかしいことでもあります。イエスご自身が居られる時から理解されないことがあり、最初は魅力的でついてきた弟子たちであってもイエスを置いて離れ去って行ったことも書かれています。

私たちは洗礼の恵みを受け、教会を中心とし、秘跡に支えられながらイエスと共にこの世を旅するものです。信仰によって「しるし」を読み解こうとするイエスの弟子です。

 


 

 

 

二人の目が開け、イエスだと分かった (ルカ24,31

 

2016年3月11日

大和カトリック教会

主任司祭 鈴木正夫

 

311の東日本大震災があって5年経ちました。本日311日の新聞によれば、避難生活をしている方々は17万人以上、遺体の見つかっていない方々はまだ2561名おられるそうです。「この海のどこかに息子は眠っている」「骨のひとかけらでも何でもいい。息子が『いた』という証がほしい」その息子さんは消防団員でいち早く市役所に駆けつけ、お年寄りを屋上までおぶって運んだ後、別の人の救助に向かって津波にのまれました。墓に納める骨はない。野球のボールを一つ入れたそうです。息子さんが『いた』という証は、親として何としてでも留めておきたい切実な思いであることが伝わってきます。黙祷。

 

さて、聖書のお話です。マルコ福音書によれば、復活の朝早くマグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメはイエスの墓に行きます。「イエスに油を塗るために香油を買って、週の始めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」(マルコ16,12)とあります。やはり彼女たちもイエスが『いた』という何らかの手ごたえがほしかったのでしょう。「ところが、目を上げて見ると、石はすでにわきへころがしてあり、墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。『驚くことはない。あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ごらんなさい。お納めした場所である』と説明し「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ164-7)告げられたということです。婦人たちは震え上がり、正気を失い、だれにも何も言わなかったと続いています。

 

 確かに『いた』イエス。十字架にかけられて死に、墓に葬られたにしても、そのイエスの遺体に油を塗り、その遺体にでも触れることによってイエスが『いた』ことの何らかの手がかりが欲しいところです。白い長い衣を着た若者は、『あの方は復活なさって、ここにはおられない。ガリラヤでお目にかかれる』と告げています。白い長い衣の若者は天使と思われます。聖書では単なる人間の次元を超えた神様の次元を説明する役割を持つのが天使です。ガリラヤは弟子たちの日頃の生活の場所です。そこで亡くなられたはずのイエスにお目にかかれると天使は告げています。過去の『いた』イエスの遺体に油を塗ることはもう必要がないどころか、自分たちの日常生活の場であるホームグランドで『いる』イエスと出あえることが復活の出来事の本質となっています。「ガリラヤでお目にかかれる」と言うのですから、イエスに出あうためにはやはり、普段のガリラヤへ戻る必要があります。

 

大和の教会はこれから復活祭を迎えるために枝の主日、聖なる三日間の典礼を祝おうとしています。過去のイエスの『骨のかけら』を探すのではなく、いのちに満ちた、生きた復活のイエスと出あうことがこの祝いの中心です。ルカ福音書24章にあるように、エルサレムから出てエマオへ向かう弟子が、エルサレムで起こった一切の出来事について話し合っていました。イエスご自身が一緒に歩きはじめられ、聖書全体について説明されます。イエスとは知らず「一緒にお泊り下さい」と無理に請います。そして宿でパンを割く時、二人の目が開けイエスだと分かりました。今年の復活祭、私たちもイエスの出来事を話し合い、論じ合い、パンを割くミサを通して復活のイエスと出あいましょう。

 

 


 

もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。

(ルカ19,42

 

 

 2016128

大和カトリック教会

主任司祭 鈴木正夫

 

 世界ではアッラーの名によってたくさんの人々の命が失われています。カトリックをはじめ他のキリスト系の人々がイスラム国のターゲットとなっています。その仲間、あるいはそれに誘発された過激集団が世界中に飛び火し、あのパリ事件以降もホテル 学校 大学 繁華街で乱射事件 自爆テロが絶えません。若い多くの人々がこのために命を賭けているようです。彼らは本当に神を求めているのでしょうか。どんな神を信奉しているのでしょうか。

  神へのあこがれは人間の心に刻まれています」とカトリック教会のカテキズムの冒頭に書かれています。人間は神を「知ることができる」とも書いています。世界にはたくさんの宗教があり、それぞれの宗教が自分たちの信じる神を大切にしています。

 本日128日は聖トマス・アクイナスの記念日です。彼は人間の理性を使って神の存在を証明する五つの道(クインクエヴィエ)を書いています。これは哲学的証明です。

 さて、私たちカトリック教会が信じている神とは一体どのような神なのでしょうか。それは、聖書と聖伝によって裏付けられたものです。神を知るには、イエスが教えてくださった神を知ることです。その神は人間にとって父である神様です。「イエスを通して父なる神を知る」これこそ私たちの信仰のあり方の基本です。

 神を父と呼び、神の御心が行われる世界になるよう教え、人間の弱さゆえ犯した過ちを互いに許しあえるよう祈ることを教えてくださいました。父なる神は人を愛すること、とりわけ小さなもの、弱いもの、傷ついているものを愛していることを教えるため、ご自分の子であるイエスによってそれを証しました。十字架はその極みです。

 使徒言行録の4章に、ペトロとヨハネがイエスの復活について話していると神殿守衛長らにつかまり、牢に入れられたことが書かれています。次の日、議員、長老、律法学者、大祭司、つまり宗教の権威者の前でペトロは言っています。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」と宣言しています。

 ペトロたちの宣教の一番の関心事は「救われる」ことにあるようです。理屈で見えない神の本性を知ることより、この私が「救われること」そしてあなたが「救われること」が大切なのです。父親のように自分を呼んでくださっている神を見失い、神のいない生活を送り、人を大切にせず、ただ自分のために人を利用し、自分から人を愛することをせず、人からなんでもしてもらうことを当然とし、よく嘘をつき、裏切り、人を憎み、仕返しをしてしまう。そんな状況から「救われること」が大切なのです。

   今イスラム国のリクルートに触発され、暴力とテロの手ほどきを受けるために多くの若者たちがうごめいています。病んでいます。今はジハードを呼びかける神の名でなく、イエスの教えた神の名をよぶことが重要です。イエスの名だけが「救い」の糸口です。

 


 

 

   私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。  

                         (マタイ2,2 

 

 20151216

大和カトリック教会

 主任司祭 鈴木正夫

 

フランシスコ教皇のニュースが新聞やテレビで報道されることが随分多くなったことを実感しています。アメリカ合衆国では両院議員の前で演説し、治安の一番よくないアフリカ3ヶ国を訪問されたことはとても印象的です。教会内部に留まるのではなく、世界に向かって積極的に強烈なメッセージを伝えようとされておられる様子がうかがえます。

  東方でその方の星を見た」と言っているのは有名な3人の博士のお話です。どのような星が出て、東方の博士たちは旅立ったのでしょうか。イエス誕生物語は、待ちわびたメシア(神の子)の到来のお話ですが、社会の人々から無視され、気付かれにくいと言うお話になっています。宿屋に泊れず、馬小屋でとか、突然の天使の出現でもなければ羊飼いたちにはわからないようなお話もあります。かれらは社会的には低い身分の人々でした。 

聖書が書き残しているこのようなお話は、イエス様の到来はあまり気付かれにくいと言うことが前提にあるように思います。「何とか気付いてほしい。だって遠くの方が気づいておがみに来ているのですよ」と言っているようにも読めます。

  パリの同時多発テロがあり、世界中が憎しみに満ちています。憎しみが報復を生みその報復から新たな憎しみが起こります。たしかにコンサートを楽しんでいるときに突然銃に撃たれ、愛する人を亡くすような理不尽で、理解不可能な出来事には唖然とさせられます。今はこのようなわけのわからないことで世界中が怒りと、憎しみにおちいりやすい危険な時なのかもしれません。挑発に乗らないことが大切です。これが、今私たちが住んでいる人間の世界の現状です。 

  さてイエスの誕生と言えば、愛・ゆるし・和解・謙虚さの誕生でもあります。このようなイエスの説く御言葉は今の私たちには絵空事に見え、きれいすぎにも思えます。今はこれを説くイエスに気付くのはとてもむつかしい時なのかもしれません。そうだとしても、愛・ゆるし・和解はどうしても人類が学ばないといけない大切な宝物です。「たとえ地獄の力が解き放たれようとも、キリスト者は呼びかけに応じて立ち上がり、頭を高く保ち、攻撃に立ち向かう備えをしなければなりません。この戦いでは、神が最後には勝利されます。その決定的な言葉は愛と平和です」。これはフランシスコ教皇が、テロ活動盛んな危険地帯と知りながら、あえてそこへ旅立たれ、中央アフリカ共和国のバンギで語られたことばです。命がけのメッセージと受け止めるべきものでしょう。

降誕祭とは、遠い道のりですが、三人の博士たちのように、わたしたちも見えにくい星をたよりに旅立ち、イエスを発見して,イエスをおがみ、愛すること、ゆるしあうこと、和解することをしっかり教えていただくときなのでしょう。

 


 

新しい典礼年、「特別聖年」への招き

 

2015年10月30日

大和カトリック教会

主任司祭 鈴木正夫

 

昨年当教会に着任し、一年以上が経過いたしました。不慣れな小教区の仕事にいまだ四苦八苦しています。外国籍の方の多い教会と言うこともあり、一人ひとりのお顔とお名前がまだ十分に理解されていない状態です。出来るだけたくさんの方々と出会い、お顔とお名前を憶えたいと思っているところです。

 カトリック教会では1129日に待降節を迎え、典礼的に新しい年を迎えます。カトリック教会の頭であられるフランシスコ教皇様は、来るべき新しい典礼年を「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」の「聖年」とさだめました。128日の無原罪のマリア様の祭日に始まり、来年の1120日の「王であるキリスト」をもって締めくくるようになっています。全世界のすべてのカトリック信徒に「いつくしみ深い神様の恵み」に目を向けるよう私たちを招かれています。

 さて、大和カトリック教会においても教皇様の呼びかけに応え、共に祈り、信仰を深め、イエス様のお顔にあらわれる、天の御父の慈しみを共に探し求めたいとおもっています。なんといっても、主日の「ミサ」は私たちにとって一番のよりどころです。ご聖体の秘跡によるイエス様との出会い、父なる神様との出会いをもたらすミサは大切極まりないものです。

 父と子と聖霊の御名によって洗礼を受け、新しいいのちの恵みを受けたあのすばらしい出来事のあった日を想い起こし、来るべき新しい典礼の年を、大和の教会共同体と一緒に始めるようお招きします。主日のミサは、土曜日6時・日曜日7時・9時半と3回あります。その他外国語ミサもあります。是非、教会においでください。お待ちしています。

 


 

 

近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ…介抱した(ルカ10,33

 

 金木犀の香りが教会を包んでいます。この香を嗅ぐときいつも思い出す光景があります。

 

 調布の神学校時代の事。小さき聖テレジアの祝日には必ず調布深大寺にある女子カルメルの修道院に行っていました。たしか早朝5時半か6時のミサなので人気もなく、スータン(黒の長い神父服)を着たまま一般道路を歩いて行く先輩神学生も居ました。きっと見た人は不気味に思ったかもしれません。木造のひなびた聖堂で、格子の扉が開かれシスターたちのお顔がよく見え、カルメル修道院の日々祈りに鍛えられた達観されたご様子に感激しながらミサに与ったものでした。

 

 小さき聖テレジアは狭い修道院に居ながら、宣教者の保護者となりました。院長の命令で書いた彼女の「自叙伝」が瞬く間に世界に知られ、彼女へ取次の祈りを願って世界中から沢山の手紙が届くようになりました。一日に千通を超えるようになったと言われています。小さな修道院に居ながら、自分は直接行けなくとも、世界の苦しみに思いを馳せ、イエスの暖かい癒しと慰めをもたらすため、そこへ向かう宣教師達のため、祈りによる後押ししました。

 

 時代も変わり、現代は世界の情報が即座に伝わっています。その情報は映像を交えより詳しく伝わってきます。カトリック教会のトップであるフランシスコ教皇の目下の呼びかけは、具体的な難民受け入れについてです。ヨーロッパに押し寄せる何十万もの難民を受け入れることはドイツ1国だけでは無理であり、各国に受け入れを呼びかけています。人への愛と言うきれいなお題目を唱えるのはやさしいことですが、具体的な受け入れにまつわる経済的出費を資産をするだけでも、腰が引けてしまうと言うことでしょう。サレジオ会レベルでも教皇の呼びかけに答え、具体的に動くよう呼びかけられています。ドイツ・フランス・スペイン・オーストラリアからの情報ではすでに数家族の受け入れに手を挙げています。また、学校としての受け入れ、経済支援、仕事の斡旋等、そのための受け入れプロジェクトチーム(窓口)が発足しています。どの国でも共通していることは、「具体的な実践」に取り組むと言うことです。計算深く、問題が起こらないよう石橋をたたき、それでも渡らない経済大国日本と大きく違っています。

 

 おびただしい難民がまだまだヨーロパ方面に向けて移動しています。何百キロの陸路を歩き続ける親子連れや、すし詰め状態の難民船が地中海をさまよっています。その現実を突きつける映像が流されても私たち日本人があまり具体的に行動を起こさないのは、遠いヨーロッパで起こっている出来事だからでしょうか。あるいは、そもそも信仰とは教会で祈り、秘跡に参加することであり、このような社会活動は政治の問題であり、国が取り扱う問題であり、教会ではないと割り切っているからでしょうか。

 

 「道の向こう側」を通って行った、神様と近しいはずの祭司やレビ人は追剥ぎにあった人の隣人にはなれませんでした。反対にユダヤ人から嫌われ者のサマリア人が「側に来て、その人を見て、あわれに思い、近寄って油とぶどう酒を注いだ」のでした。

 

20151010

主任司祭 鈴木正夫

 

 

 


 

 

あなたの指で創られた月と星を眺めて思います。人とは何者か。                                (詩編8章)

 

この夏も若者たちの合宿に参加しました。「第七地区のリダー養成キャンプ」「野尻湖聖書学校」(男子対象・サレジオ主催)「フォルティッシモ・イン・NOJIRI(女子対象・サレジアンシスターズ主催)でした。およそ120名の若者とそれにかかわるリーダーを入れれば150名以上の方々と数日間を共に過ごすことができました。もちろん、信徒対象の集まりですのでミサ・研修講話・歌・リクレーション活動が中心の活動です。

 

 カトリックと言う同じ信仰に結ばれた若者たちの集まりは、学校主催の夏季キャンプなどと少し違った特別なものがあります。

ひとことで「世の中は」と、くくれないのですが、「世の中は」コントロールの利かない世界経済の原理に支配され、政治も否応なくそれに動かされているように思います。若者たちの世界といえば、スマホを中心としたコムケーションツールを持たされ、自分の世界で気の合う友達との密なやり取り、また興味あるゲームや音楽・芸能関係・スポーツ関係の話題で頭をいっぱいにしているようにも思います。両耳はイヤホンにふさがれ、すぐ隣の人の言葉は聞こえないようにもなっています。

 

さて野尻湖のキャンプサイトは森に覆われ、湧き水と言われているように、水質がよく大変澄んでいます。セミの鳴き声、岸に押し寄せるさざ波の音、木々の間を吹き抜ける風の音、野鳥たちのさえずりはまさに自然のただなかに若者たちを包み込みます。命あるものすべてのものの原点に目を向けさせる場とも言えます。自分が誰で、どこからきて、どこへ向かっている存在なのかをおのずと思わせる又とない環境と言えます。

 

普段一緒ではない若者たちが互いに出会い、一緒に遊び、作業し,食べ、祈る体験も得難い恵みの体験です。時間を守ること、当番を果たすこと、掃除すること、静かにし沈黙を守ることなど、すべてこれまでの個人的生活と違い一緒に過ごす他の人との協調が求められます。

 

10年ごろ前の中高生の質と今頃の中高生の質が少し変わってきたように感じます。隠れてスマホを使ったり、ゲーム楽しんだりする者が少なくなってきたように感じます。むしろ、あたらしい人間関係に興味を持ち、一緒にゲームすることを素直に楽しめるような雰囲気になってきたように思えます。人の手でつくられた人工物によって日々生きている世界より、人の手でつくられたものではない自然をはじめ、これまで出会ったことのない新しい人間との出会いはもっと興味深いものなのではないかとも解釈できます。

 

今年は満天の星はおがめませんでした。自分が生まれる前から、何億年も前からあった星や月、そして自分が居なくなってもあり続けであろう宇宙の星々を眺め、ちっぽけな自分の存在をどのように理解すればいいのか。小さな地球の、しかも何十億人の一人にすぎない自分がどんな存在の意味を持つのか。このちっぽけな私に心をかけて下さるお方がいらっしゃるとは。若者であるからこそ、自分の存在の不思議と出会い、背後におられる神の存在をストレートに思索する夏合宿となることを願っています。 

2015815

主任司祭 鈴木正夫

 


 

◆あなた方は地上に富を積んではならない。(マタイ619

 

  円安があり、輸出が増え、経済界では少し上昇気味となり、雇用も増えつつあります。不況から脱出し、好景気になればよいとみんな思っています。「全国津々浦々まで…」と言う言葉も印象的です。

 

 この世で生きて行くために、財産(お金)抜きにはやっていけません。お金があってこそまともな社会生活が成り立ち、子供たちへの教育が行われます。生活費を獲得するためには仕事に就く必要があります。正規雇用や非正規雇用の問題。若い人の将来性のないバイト生活は結婚生活を困難にし、安定した社会を構築しにくくしています。

 

 さて、「富は天に積みなさい」とイエスは教えています。天に積むことのできる「富」とは何でしょうか。天に積まれた富は「虫が食ったり、さび付いたり、盗人が忍び込んで盗み出すこと」はないと聖書は語っています。

 

 虫のつかない、さび付かない「富」はこの世の財産と次元を異にするものなのでしょう。書かれている聖書の流れから解釈すると、「施し」をするなら人目につかないように。「祈り」をするなら人に見てもらうようなところでしないように。「断食」をするときは、いかにも断食をしているかのような恰好をしないように。と言う教えがその前にあります。つまり「偽善的」なことが無いようにと言う教えです。宗教的行為で大変すばらしい「施し」「祈り」「断食」なのですが、どんな素晴らしい良い行為でも、どこか下心が見えるのが人間の悲しい現実です。

 

 地上の富は目に見えますが、天上に積む富は目に見えるものではありません。夫婦の間に生じたちょっとした感情の行き違いで、会話が途絶えた時、自分の方から思い切って話しかけ、新たな関係を作り上げようと心砕いたこと。ぐずって、わけわからず泣き続けるわが子に、怒鳴りたくなった時、それでも落ち着いて丁寧に対応したこと。色々なことが日々起こってきます。明るく振舞い、笑顔を絶やさず、周りに平和と安らぎを醸し出す方もいます。誰にも気づかれず、評価されることはないかもしれません。天に宝を積むとはこのようなことを指しているのです。神様だけがご覧になっておられる天の宝です。

 

 

201576

主任司祭 鈴木正夫